シチリアの亡霊3
夜の帳が下り、イアンはホテルのバーでお気に入りのカクテル――キャロルを飲んでいた。
部屋でウイスキーを飲んだくれているうちに意識が途切れて、目が覚めるとひどい頭痛がした。その頭痛を治めるためにまた酒を飲みに来たというわけだ。
イアンはアルコールの悪循環にはまっていた。
二日酔いを治めるために朝から酒を飲み、昼は酒瓶を片手に過ごし、夜はバーで本格的にカクテルを飲む。イアンが泥酔することはなかったが、二日酔いには常に悩まされている。もはや頭痛薬は効かない。やはり特効薬は酒だ。
イアンはマラスキーノ・チェリーを奥歯で噛み潰し、眉根を寄せて咀嚼をやめた。
硬い歯応え。口内に尖った不快感が広がり、甘さと苦さがない交ぜになる。
マラスキーノ・チェリーには種が入っていた。カクテルに対するこだわりをぶち壊されて、イアンは不機嫌になった。
口直しにナッツを頬張る。キャロルを口に含み、吟味する。都市のホテルのバーということもあり、味は申し分ない。
マラスキーノ・チェリーが種ありなくらいでマスターを咎めるべきではない、とイアンは思い直した。
アルコールの海に溺れても、オリガは水面に浮かんでいた。乳白色の裸体で月光を反射させて光り輝いていた。
オリガはどこでどうしているだろうか。夜ならば日光は当たらない。外に出て白く美しい肌をさらしたとしても平気だ。
「まるで君は吸血鬼だ。君が自由でいられるのは夜のみ、昼は太陽に恐怖しながら生きなければならない。私と同じだな。私は戦争という太陽を失い、自由になった。太陽がなければ君も自由だ」
独りごちると、無性にオリガに会いたくなった。
イアンにとってロシア人は敵だった。子供も女も、戦場では無差別に殺すべき対象だった。そんなロシア人を魅力的に思ったのはオリガが初めてであった。
「あら、もしかして、ミスター・イアン?」
背後からかけられた声に、イアンの心臓はびくりと飛び跳ねた。振り返ると、そこには季節外れな雪の化身が立っていた。
「失礼、ミスターをつけられるのはお嫌いなのでしたね。イアン、隣に座ってもよろしいですか?」
「あ、ああ、どうぞ」
イアンはしばし放心していた。その間にオリガはカルヴァドスを注文していた。
「どうかなされましたか? ぼーっとしていらっしゃるようですけれど」
「いや、ちょうど君のことを考えていた矢先に君が現れたのでね。少し驚いてしまった」
「私も驚きましたわ。まさかこんなところであなたとお会いできるなんて。パレルモのホテルに泊まっていらっしゃったのね」
「友人がVIPルームを手配してくれてね。しばらくここに滞在することになった。しかし、どうして君がここにいる? てっきりシラクサに住んでいるものだと思っていたのだが」
「ふふふっ、移住したといっても家はありませんのよ。シラクサには仕事に行っていたのです。基本的にはパレルモで生計を立てています」
「なるほど。どんな仕事をしているんだ?」
「私立探偵ですわ。シラクサには情報収集に行っていました」
「ほう、私立探偵か。珍しい仕事だ」
「よく言われますわ」
オリガの前に空のグラスが置かれる。林檎を丸ごと漬けたカルヴァドスが注がれる。
咳払いし、イアンは二杯目のキャロルが入ったグラスを持ち上げた。
「私たちの再会に」
「ええ、乾杯」
グラスがぶつかり合い、甲高い音を奏でる。
イアンは二、三口でキャロルを飲み干し、オリガはちびちびと舐めるようにカルヴァドスを飲んだ。上品な飲み方ではあったが、酒豪の彼からしたらじれったかった。
「酒には弱いのか?」
「ええ、まあ。カクテル一杯でも酔いが回ってしまいます」
「酔ったらどうなる?」
「ふふふっ、試してみますか?」
「そうしよう。マスター、キャロルとリトル・プリンセスを」
イアンがオリガのために注文したリトル・プリンセスは、マンハッタンのレシピ――ライ・ウイスキー、スイート・ベルモット、アンゴスチュラ・ビターズのライ・ウイスキーをラム酒で代用したカクテルだ。彼はマンハッタン系のカクテルを一通り飲んでいるが、その中でもキャロルとリトル・プリンセスを気に入っている。
だが、退役した日の夜、シカゴのバーでリトル・プリンセスを死んだジャンに捧げて乾杯したため、それ以来飲んでいない。何故ジャンにリトル・プリンセスを捧げたのかはよく覚えていない。もしかしたら、彼がリトル・プリンセスを飲んでいたのが思い出されたからなのかもしれない。
言っていたようにカクテル一杯で酔いが回ったのか、オリガの頬にはほんのわずかに朱が差していた。純白に浮かび上がった朱色は妖艶さを際立たせており、イアンは思わず見惚れてしまった。
「夜の君は一際美しい。無機質さが失せて生物的になった。君にはリトル・プリンセスの名が相応しい」
オリガは恥じらいに白百合のようなまつ毛を伏せた。
「可愛らしい名前ですけれど、私には似合いませんわ。もう大人になってしまいましたもの」
「女は美しければいつまでも少女さ」
「幼く見えます?」
「ふむ、そうだな……やはり私からしたら君は少女だ。君なら永遠に少女でいられる気がする。どんな美もいずれは醜に成り果てるが、君はきっと例外だ」
「つまり、醜くなる前に死ぬ、ということかしら?」
「佳人薄命と言うしな。美人はその美貌ゆえに数奇な運命に翻弄されて早死にする。おっと、本気にするな。これは迷信だ。私はこの手の話を全く信じない人間だ。よく罰当たりな人間だと言われるくらいにね」
オリガは佳人薄命という言葉に引っかかっていた。
オリガ自身、この言葉を体現しているようなものだった。数奇な運命に翻弄された結果、モスクワからシチリア島に移住した。もしこの言葉が本当なら早死にしてしまう――そう思うと憂鬱な気持ちになった。生きる意味を失ってなお自殺できなかったのだ、彼女は殊の外死を畏怖していた。
三つ目のマラスキーノ・チェリーの種を飲み込んで果肉を味わい、イアンは横目でオリガを見やった。
「怖がらせてしまったのならすまない。だが、君までこんな迷信を信じてどうする? 君は美人に違いないが、薄命かどうかはわからない。人間の死なんてわからないものさ。死は突然に訪れる。今日を生きていても、明日は死ぬかもしれない」
「そう、ですわね。死は怖いけれど、人間はいつか死んでしまう。生物の頂点に君臨していても、所詮は人間も脆弱な生き物に過ぎない。今日を生きられたらそれでよしとしましょう。たとえ明日は死ぬのだとしても」
「そうさ。今日を生きられたら明日も生きられるかもしれない。たまに夢見ることがある。明日になれば左目が開いて右脚が生えてくるのではないか、とね」
リトル・プリンセスをすすり、オリガは薄紫色の瞳でイアンの瞳の奥をじっと見据えた。
「もし本当に左目が開いて右脚が生えてきたらどうしますか?」
「戦場に戻る」
イアンは即答した。
「戦場こそが私の家だ。ロサンゼルスに私の家はない。願わくばかつてのように戦場を自由に駆け回りたい。戦場にいる時は本当の私でいられた。ご覧、この私を。ひどい有り様だ。ただの飲んだくれだ。私は全てを失った人間を体現している」
「人間を殺したいですか?」
「殺したい。敵を――ロシア人を殺したい。今日ロシア人を殺せるのなら、明日は死んでも構わない」
「やはりロシア人を恨んでいらっしゃるのですね」
「いや、ロシア人にはなんのわだかまりも抱いていない。敵がイタリア人ならイタリア人を殺す。たまたま敵がロシア人だったからロシア人を殺したいのだ。それに、戦争に勝とうが負けようが私にとってはどうでもいいことだ。ロシアが勝ってもロシア人は嫌いになれない。君がロシア人だから」
オリガは複雑な表情をした。喜びと悲しみを織り交ぜて顔面に貼りつけたかのようだった。戦争の話題はもうたくさんだった。
「イアン、私にあなたを救えますか?」
イアンは瞠目した。
オリガの言葉を脳内で反芻してみる。
私にあなたを救えますか――まるで救いの手を差し伸べられたかのようだ。いや、オリガは本当に救いの手を差し伸べようとしているのかもしれない。そうでなければこんなことを言うはずがない。
では、何故? オリガに私を救う義理なんてありはしない。シラクサで出会ってティータイムを共にし、パレルモのホテルで再会した偶然の関係だ。この一言ではいまいちオリガの意図が把握できない。
「君は唯一私を救える人間かもしれない。人間をここまで魅力的に思えたのは君が初めてだから」
「アルビノを気持ち悪いとは思いませんか?」
「微塵も。君は何も劣っていない。むしろ、アルビノのおかげで優れた美貌を有している。劣っているのは私の方だ。質問を返そう。かたわの私を気持ち悪いとは思わないか?」
オリガは瞳を潤ませて何度も首を左右に振った。
「思いません。あなたの左目は私に見えないものを見ています。あなたの右脚は私よりもずっと先を歩んでいます」
「それなら私に救いはいらないのではないかな?」
「いいえ。あなたには支えが必要です。昼の私はかたわ――あなたと同じです。かたわとかたわが支え合えばまた走ることができます」
エメラルドのごとき瞳に一筋の希望の光が差し込む。
「また戦場に戻れるか?」
「いいえ。あなたはかわいそうな人間ですね」
「私がかわいそうな人間?」
「そうです。あなたは精神も肉体も戦争に穢されてしまっています。全てを失ったというのに、なんのために戦うのです?」
「わからない。考え続けてきたが、答えは出なかった。もしかしたら、私は奪われたものを取り返そうとしているのかもしれない」
「戦争に奪われたものは二度と戻ってきません。戦い続けても得られるものはありません」
「だが、私は戦うことで自己満足を得ていた。戦いをやめてからは虚無感が私を支配した。退役して一年、私は地獄を味わっている。こんな人生にはもううんざりだ。君にもこの苦痛が理解できるはずだ」
「はい。だからこそあなたを救いたいのです」
オリガの真意が垣間見えてきて、イアンはしばし沈思黙考した。
救ってくれるのなら是非とも救ってほしい。オリガと支え合いながら生きる人生も悪くはない。いや、それどころか最高の人生になり得る。戦争を忘れられるものならそうしよう。だが、それができないから私はもがき苦しんでいる。差し伸べられた白い手を掴めば何かが変わるかもしれない。いずれにせよ、私はもう戦場には戻れない。それはわかっている。得るものはあっても、失うものは何一つとしてない。
懐から煙草の箱を取り出す。まるで重みがない。中を覗き込むが、一本も残っていない。
イアンは嘆息し、煙草の箱を握り潰して灰皿に突っ込んだ。
「わかった。私の人生、君に捧げよう。これからは君のために生きよう。愛想を尽かされても構わない。見捨てられても構わない。一時でも君といられるのなら私は幸せだ」
「見捨てたりしませんわ。きっと私が戦争の苦痛を癒やしてみせましょう」
オリガは本気だった。つい最近まで見ず知らずだった退役軍人のために人生を捧げようとしていた。これは酔っているせいもあった。
イアンはくだらないジョークを延々と耳元でささやかれているような気分だった。それでいて、不思議と嫌悪感はなかった。オリガが嘘をついているようには思えなかった。
二人は微笑み合い、手と手を携えた。
「ああ、そうだ。今度友人と食事の約束をしたのだが、君も来てくれないか?」
「私が行ったら邪魔になるのではありませんか?」
「いや、むしろ助かる。友人の恋人も同席するのでな、一対二では少々やりづらい。それに、今日から君はれっきとした友人だ。是非とも君を紹介させてくれ」
「わかりましたわ」
「レストランの予約が取れ次第連絡すると言っていた。日時がわかったら君にも連絡するよ」
「はい。楽しみにしております」
イアンは一安心した。仮の伴侶を手に入れたかのようで、内心舞い上がっていた。
今宵の酒はやけに進んだ。
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