第八章   ZEROになる勇気   六

 十一歳になったばかりの某日。白龍が棲むと言われる伝説の川で、俺の勇気は試された。

 春まだ浅い故郷の川は冷たく澄み切って、川底が透けて見えるほどだった。

 大勢の野次にあおられ、勢い良く橋の欄干に飛び乗れば、川辺を這うように吹き抜けていく風。

 まぶしすぎる太陽が織り成す、光のスペクトルが川面に反射して白々ときらめく。

「龍の鱗だ……白龍が来てるぞ! 孝一、気を付けろ‼︎」誰かが叫ぶ声が聞こえた。

 一瞬びくっと怯んだ心を振り切るが如く、身にまとった服を一枚、二枚と脱ぎ捨てて行った。

 やがて生まれたままの姿になると、えもいわれぬ不思議な感情に満たされていった。

 恐ろしい白龍の伝説はどこへやら。後先を顧みない心は、思いもよらぬ願望を抱き始めた。

「白龍、お前に会いたい……」

 この上なく危険で甘美な誘惑に取りつかれた、恐れを知らぬ十一歳の心。

『来イ‼︎』と威厳に満ちた声が重くのしかかり、俺の中に轟いた。

 一瞬、川面に翻る白い影。

「今だ‼︎」

 完全に無抵抗になった体が、ふわりと橋の欄干から落ちていった。

 時間の流れを逆らうようにゆっくりと、ゆっくりと。弾け飛ぶ水しぶき。

「冷たい……」

 しかし、人間として当たり前の感覚も、ほんの束の間。不思議な静寂が俺を包み込んだ。

 音のない透明な世界に、おびただしい数の細やかな水泡が、次々と現れては消えていく。

 その儚き泡の一粒、一粒に閉じ込められているのは、これまで駆け抜けてきた一瞬、一瞬の命のきらめきだった。

 その儚き泡の中で、泣き、笑い、怒り、喜び、迷い、悩み、願い、傷つき、再び挑もうとする俺がいた。

『オマエハ ダレダ?』

 どこから聞こえてくるのか。耳から入ってくる声ではない。

『オマエハ ダレダ?』

 再びの問いかけに、声の行方を目で追った。

 何か、いる……

 立ち昇る泡をかき分けて目を凝らせば、うごめく白い巨体。

 紅の血に染まった剥き出しの目が、じっと俺を睨んでいる。

「白龍だ……」

 静寂に包まれた世界で、暫し睨み合いが続いた。

「お前こそ、誰だ?」

 声に出さずとも、思いが浮かんだだけですぐに返事がきた。

『ワレ 渡良世川ヲ守リシ 神ノ遣イ 龍神ナリ』


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る