第八章   ZEROになる勇気   六

 それにしても『ZEROになる勇気』とは、どのような意図を持って書かれた言葉なのか。

 すっかり『ZERO』に心を奪われていた。気づいたときには静まり返った広い部屋に、俺と碓氷と看護師の三人だけになっていた。

 碓氷の傍に寄り添うように立つ看護師が、急かすように手招きをしている。

 再び面会時間終了のアナウンスに、慌てて駆け寄った。 

 碓氷の前にひざまづくと、ほんのりと、あの青い松の香りがした。

 静かに、しかし確実に忍び寄ってくる死の影。いや、まだだめだ。やめてくれ! 

 たまらず、だらりと膝の上に置かれた手を取ると、そっと握り返してくれた。思っていた以上に力強く。

「どうして横文字のZEROにしたのか、わかる?」

 含み笑いを浮かべた看護師が、唐突に尋ねてきた。首を横に振る。

「碓氷さんたら可笑しいの。あなたへの色紙を書いている時、しかめっ面しながらふん、ふん、唸っていて。どうしたのと聞くと、数字の0もカタカナのゼロも、漢字の零も気に入らないって言うわけ。じゃあ、英語のZEROしかないねって言ったら、俺は横文字嫌いだって」

 落ち窪んだ眼が笑っている。何かを企んでいる眼だ。

「それでもと思って書いて見せたら、意外や意外。いいな、って。あんなに嫌がっていたくせに。あんまり素直に受け入れるから、拍子抜けしちゃったわ。歳をとると頭が固くなってダメね、碓氷さん!」

 相変わらずの調子で、碓氷の顔を大げさに覗き込んで見せた。

 わからず屋の頑固親父よろしく、決まりが悪そうに眉間にシワを寄せる姿がおかしかった。

 看護師がさりげなく腕時計に目をやる。

「孝一……」と蚊の鳴くような小さな掠れた声で、俺の名を呼んだ。

 返事がわりに握り返した手が、かすかに震えながら次の言葉を待っていた。

「ZEROになる勇気とは、全てを脱ぎ捨て裸になる勇気だ。わかるか? 己を守るために、その身に纏ったもの全てを手放す勇気が、お前にはあるか?」

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る