第八章   ZEROになる勇気   四

 そんな佐伯の姿を横目に見ながら、マウンドに駆け上る。

 ピッチャーとしての意地とプライドを懸けた一戦。否応なしに上がっていく魂のボルテージは、振り切れんばかりに高まっていった。

 佐伯の足跡をスパイクで軽く振り払い、名残りをかき消す。

 穏やかな春の昼下がり。日立市民球場は今日もよく晴れわたり、雲一つない空の青を思いっきり吸い込んだ。

 こんな時に、何故だろう。ふと守安玲緒の姿が脳裏をかすめた。

 今日は会瀬会場と同時進行で、三菱重工神戸対鷺宮製作所の試合が行われていた。

 周囲の期待を一身に背負いマウンドに立った守安だったが、まさかの展開に酷く落胆している様子だった。

 傷が癒える間もなく、中一日置いての登板。ピッチャーとしての酸いも甘いも知る者同士、エールを送らずにはいられなかった。

 ピッチャーはマウンドで孤独だ。正直、逃げ出したくもなる。

 大きな怪我や挫折を味わうことなく順風満帆に歩んできた俺の野球人生。

 何度かピンチに立たされながらも、負ける気がしなかったし、事実、負けなかった。

 勢いに乗り、怖いもの知らずの無鉄砲な若者には、勝負に敗れた者の心の痛みなど、知る由もなかった。

 見かねた野球の神様が、俺に下した天罰なのだろうか。

 突如として現れた左肘の不調に四苦八苦し、今まで築き上げてきたもの全てが、音を立てて崩れていった。

 それにも増して、自分自身の心が壊れていくのが怖かった。

 いつからか、こっそりと付けられたあだ名は『ガラスのエース』。

 ピッチャーとしての誇りとプライドは粉々に砕け散り、鋭い破片に深く傷つけられた心は、血の涙を流し続けていた。

 誰に、何を、どう言われようが、最後の最後にボールを投げるのは自分。誰も助けてはくれない。

 大きな挫折を味わって、初めて見えてきたもの。

 今まで目を背けてきた、自分自身の影と正面から向き合い、導き出した一つの答えは『絶対に勝つ』から『絶対に負けない』と、似て非なる心構えだった。

 攻めるばかりでも、守るばかりでもいけない。

『攻めながら守る』微妙なバランス感覚は、あらゆるシーンに於いての要となった。

 清く繊細でもろいガラスの心を抱えながら、今日もこうしてマウンドに立っている。

『もう、いいだろう』野球の神様が言ってくれる、その日まで。

 

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