第八章 ZEROになる勇気 三
翌日の試合会場は、会瀬球場だった。日立製作所の所有野球場で、野球部の合宿所も隣接し、日立製作所野球部のホームグラウンドだった。
球場以外にも体育館、陸上競技場、テニスコートが併設されていて自治体の運動公園並みの施設が整っていた。
会瀬球場は日立市長杯のサブ会場として使用されていた。
日立市民球場とは車で二、三分の距離にあるため、準決勝の際には各ブロックの頂点を極めたチームが二つの会場に分かれて試合を行っていた。
会瀬球場での勝者は、すぐさま日立市民球場に移動して決勝戦に挑む。
球場設備は基本的に練習拠点のため、必要最低限の装備がなされているのみであった。
しかし、フィールドの広さや高い外野フェンス、非常に丁寧に整備されたグラウンドからは、深い愛着心が伝わってきた。
収容人は400人。スコアボードはパネル式で照明設備はない。
味のある木製のベンチは、高校時代の簡素なグラウンドを彷彿とさせて懐かしさがこみ上げてくる。
外野に張り巡らされた天然芝。萌芽の時季が近づき、冬枯れの芝生に混じって、所々に緑の新芽が顔をのぞかせていた。
思わず深く息を吸い込めば、ほのかに漂う、青く萌ゆる香り。
グラウンドの周囲をぐるりと見渡すと、日立の工場から事業所、製作所といった巨大な建物が取り囲むように林立していた。まさに日立王国のど真ん中であった。
大会二日目。富士重の対戦相手は、主に自動車制御機器等を製作している大手メーカーの鷺宮製作所だった。
一九五八年に創部。埼玉県狭山市に別チーム『鷺宮製作所狭山』を有していた時期もあったが、二〇〇二年のシーズンオフに狭山チームを解散。東京チームに一本化された。
しかし、狭山チームが所有していた合宿所と練習グラウンドは、そのまま引き継がれて使用されていた。
都市対抗では三十二年間も白星から見放されていた。だが、二〇〇七年の大会では、念願の初戦を突破。勢いに乗って勝ち進み、ベスト四まで進出した。
また、JABAの東北大会では優勝五回。四国、新潟大会に於いても、それぞれ一つずつ優勝旗を手にしていた。
白地に少々幅広の縦縞ユニフォーム。チームカラーの紺地の帽子の鍔の上には、白鷺の片翼と黄色いSの文字が横並びに刺繍されていた。
チームスローガンは『緊褌一番』。
気持ちを引き締め、覚悟を決めて取り掛かること。大勝負の前の心構えを表す言葉だった。
古くは、褌(ふんどし)を固く締め、大事に臨む心構えを表す意味で用いられていた。
「さぁ、俺たちも褌(ふんどし)を固く締め直して、行くでぇ‼︎」
出陣前のごった返すベンチのなか、上野が本日の先発を任されていた水上の逞しい尻を思いっきり叩いた。
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