第七章 登龍門 二
イヤホンをしたまま、眠っていたらしい。
耳の奥で聞き馴れた曲が流れ続けていた。
遮光カーテンの隙間からは、既に白み始めた様相の空が窺えた。
小鳥のさえずりが、窓越しに微かに聞こえる午前五時。
庵原球場から少し上った小高い丘の上に建てられたホテルの部屋。
カーテンを開けると朝靄の中、遥か遠方に駿河湾の勇壮な眺めが広がっていた。
清水港一帯に広がる街並み、興津の白いコンテナ・ヤード。
真正面に見える駿河湾の右手からは、三保半島のなだらかな稜線が海原を遮るように、細く長く横切っていた。
左手には、淡く霞んだ伊豆半島が太平洋に向かって伸びていた。
海なし県に育ったからだろうか。海を見ると、なぜか心揺さぶられるものがあった。
人の起源は海から始まったと聞く。どこか懐かしい場所に帰ってきたような不思議な気持ちにさせられるのだった。
朝食までには、まだ時間がある。
早朝の冷涼な空気に触れたくなり、静かに部屋を出た。
ホテルの裏の遊歩道を一キロメートルほど登っていくと広場があり、中央には『いほはらの丘』と刻まれた石のモニュメントがあった。
軽く息を弾ませながら、遮るもののない三六〇度の大パノラマを見渡した。
新東名高速、清水ジャンクションの人工的な造形物の曲線美もさることながら、遠巻きの空に浮かび上がる富士山の、威風堂々たる雄壮に胸を打たれた。
眼下に広がる茶畑の整然とした横縞模様。朝凪に風の詩はピタリと止み、静謐な時間が俺を包み込んでいった。
ふと、展望台の東屋にたたずむ人影を見つけ、思わず足が止まる。
「ここで大和に出くわすとはなぁ」
いつもとは違って、どこか近寄りがたい雰囲気の磯部がいた。
「りゅう兄ぃが来るような気がしてましたよ」
磯部はまんざら冗談でもなさそうに、さらりと言った。
伊豆半島の稜線が朝焼けに染まり、太陽が昇り始める。
ゆっくりと放射状に広がってゆく陽光を一面に浴びた駿河の海が、魚の鱗のようにキラキラと煌めきを放っていた。
俺たちは暫し言葉を忘れ、ダイナミックな朝の訪れに見入っていた。
風が立ち始めた。丘一面を覆う緑の絨毯が、風の揺らぎに一斉にさらさらと靡いた。
葉擦れの微かな囁きが耳に心地よい。
冷たく澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込む。隣では、磯部が大きく伸びをした。
「無性に海が見たくなって。柄にもなく早起きしてしもうたとよ」
いつものにこやかな磯部の顔に戻っていた。
「どうして俺がここに来るとわかった?」
磯部は呆れたように口元だけでニヤリと笑った。
「そりゃ、わかりますよ。りゅう兄ぃの考えてることくらい。言ったでしょう? 俺の頭はスーパーコンピューターだって」
揶揄うような言いっぷりが鼻につく。
「ずいぶんと自信があるんだな」多少の皮肉も込めてかわした。
「もちろん! 何の根拠もないっすけどね。俺にポーカーフェイスは通用しませんよ」
何の根拠もないくせに。見透かしたような言い種がまた、鼻につく。
丸裸の心が慌てて衣を纏う。これ以上の深追いはやめることにした。話題を変えよう。
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