第七章   登龍門   二

 毎度のことだったが、大会の一週間前位から俺の眠りは次第に浅くなる。

臨戦態勢に向けてのスイッチがオンになった証だった。

 わずかな物音にも非常に敏感になり食欲も抑えられ、徐々に五感が研ぎ澄まされていく。

 あらゆる選択肢はふるいにかけられ、余計なものはことごとくそぎ落とされる。

 周囲三六〇度に張り巡らされた集中力は、瞬時に必要最低限の情報で最大限の能力を発揮できる状態にあった。

 拠点のねぐらは静岡遠征の際に何度も利用したご贔屓宿だったので、ある程度の我儘も許された。

 夕食はかけうどんとおにぎりにしてもらい、軽く済ませた。

 風呂も大浴場にはいかず、部屋に備え付けのユニットバスで、ぬるめのお湯にゆっくりと浸かる。

 体中の筋肉を丹念にマッサージしてから床に就いたのは十一時を少し回った辺りだった。

 寝付きは悪い方ではないが、目を閉じても軽い興奮状態が眠りを妨げていた。

 こんなときは好みの音楽を聴いて気を紛らわすのが最適だった。

 イヤホンから流れてきたのは、コブクロの歌う『蕾』。

 郷愁を誘うメロディー。亡き母を思って書き上げたという詩は、包み込むような優しさと慈愛に満ち溢れ、どこか真琴の姿と重なって見えた。

 十六年前のちょうど今頃、武尊と真琴と揃って同じ高校に入学した。

 真新しい制服はどことなく着心地が悪く、落ち着かなかった。

「梅ちゃんにピカピカの一年生、見せに行こうよ」

 真琴の燥ぐ声に促され、三人で歩いた桜の小径。

 無数に枝分かれした細く頼りない先端にまで桜の小花が咲き乱れ、重みで垂れ下がった枝垂れ桜の美しいこと。

 淡く萌ゆる薄桃色のアーチを無邪気に笑い、じゃれ合いながら歩いた。ただただ、楽しかった。

「ねぇ、ここから梅ちゃんの店までかけっこしない? 負けた奴が焼き蕎麦を奢るのはどう?」

 振り向きざまに悪戯っぽく笑ってみせた真琴の肩にひらり、桜の花びらが舞い落ちた。

 その顔が急に大人びて見え、妙にどぎまぎしたっけ。

「よっしゃ、決まり! マコはのれぇ〜から、ハンデつけてやるべぇ。半分先に行けよ」

 足の速さには自信のあった武尊が、手ぐすね引いて急かした。

 およそ百メートルの距離を、真琴の掛け声でスタートを切った。

「よーい、ドン‼︎」

 俺と武尊。ピンクの絨毯を蹴散らしながら、走る、走る。

 始めのうちは競り合っていたものの、次第に武尊が一歩前に出て行った。

 あと、残り十メートルの辺りで真琴を軽々と抜き、一番にゴールした武尊が、パタリとその場に倒れ込んだ。

 ゴール直前で頭一つぶん、真琴よりリードした俺も、息せき切って武尊の隣に倒れ込む。

「あ〜ん、もうイヤだ〜 なんなんなん!」

 と、真琴が俺と武尊の間に強引に割り込みながら倒れ込んできた。

 長くたおやかな黒髪が、俺の手のひらで揺れていた。

 三つの若い心臓は激しく高鳴って、満開の桜の間を縫うように覗く青空を仰いでいた。

「俺たち、生きてんだなぁ」ぽつりと武尊が呟いた。

「そうよ。私たち、今を生きてる!」真琴が叫んだ。

 俺は何も言わず、ただ高きを見つめていた。

 あの時、俺の目には何が映っていたのだろう。思い出せなかった。

 イヤホンからは次の曲が流れ始めていた。

 真琴が『蕾』の詩の一節にあるように『聞こえないがんばれ』のエールを投げかけてくれているようで、もう一度リプレイした。

 



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