第七章 登龍門 一
長椅子に腰掛け、新聞紙を足元に広げてスパイクの泥を丹念に落としていく。
高校時代から、どんなに練習で帰りが遅くなろうとも、スパイクやグローブの泥を落とし、納得のいくまで磨いた。
毎日、何があろうとも欠かすことのない、地道な道具のメンテナンス。
スパイクを磨きながら、その日の試合を振り返ったり、新たな課題を発見したり。より良いパフォーマンスにつなげていくための大切な時間でもあった。
常日頃から愛着のある道具たちには大きな力をもらっているだけに、感謝の思いを込めた入念な手入れは欠かせなかった。
エナメルバックから、手入れ用の七つ道具が収めてあるケースを取り出す。
まずはシューズの紐を外し、布に専用クリーナーを染み込ませる。その上に紐を載せて、引っ張るようにして汚れを取った。
隣で同じように手入れを始めた磯部が「そこまで、やるんかい〜」と、茶々を入れてきた。無視して黙々と続ける。
道具と会話できる貴重な時間を、誰にも邪魔されたくなかった。
肩をすくめながら、すぐさま磯部も靴紐を解き同様に始めた。
捻ねた所のない素直さは見習わなければと、孝一はいつも思う。
次にインソールを取り出し、同じようにクリーナーで丁寧に拭き取り、汚れを落とした。
外回りは専用の柔らかいブラシを使って、縫い目に詰まった汚れや細部の入り組んだ箇所の汚れを落としていった。
最後はクリームをシューズに塗り、クリーム・ブラシで細かいところまで丁寧に擦り込む。五分ほど乾かしてから再びブラシで全体をブラッシングして、さらにハンドクロスで仕上げると、見違えるように綺麗になった。
調子が良くても悪くても、投手の足元をしっかりと支えてくれるスパイク。使い込むほどに、一体感が増していく。
型崩れを防ぐためのシューズ・キーパーをセットして「明日も頼むぞ」と思いを込める。
入部の際に、思い切って新しく買い換えたグローブ。
丹精を込めて型作りしてきた甲斐あって、ようやく自分の手にしっくりと馴染む状態になってきた。
新品のグローブは思いのほか硬く、オイルを染み込ませ丁寧に揉み込んで、徐々に皮の硬さを調整していった。
メンテナンスの際は必ず手にはめて、感触を確かめながら行った。
作りたい型をしっかりとイメージして、理想の状態へと作り上げていく。
皮がかさつき始めたと感じたら、部位によって固形と液体のオイルを使い分け、塗り込んで行った。
固形オイルは、皺のより寄り易いグローブ内側のポケット部分に、外周は固形オイルを塗った後、さらに液体オイルを薄く伸ばしていった。
紐を通した部位だけは形状が複雑に入り組み、尚且つ擦れてかさつきやすい繊細な場所だった。
手に直接オイルをつけ、丁寧に塗りこむのが最善の策だった。
最後に親指掛けの紐を再確認した。親指掛けはグローブ捌きに大きな影響を及ぼす。
緩すぎると親指が効かないばかりか、突き指の原因にもなる。だから、使用前にしっかりとした調整が欠かせない。
勘を頼りに微調整を終えて、型崩れを防ぐための硬球をポケット部分に挟み込んで終了。
一年をかけて磨き込んだグローブの皮は、深みのある美しい飴色に変わっていった。
ようやく、ここまでたどり着いた。成功を夢見た若鯉が避けては通れぬ『登龍門』。
登り切った鯉がいたならば、龍になると云う伝説を、心のどこかで信じている自分がいた。
立身出世のための関門を見上げ、孝一は決意も新たにロッカールームを後にした。
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