第七章 登龍門 一
継ぎ剥ぎだらけのガラス窓から遥か遠方。赤城山の長い裾野が、なだらかなシルエットを浮き上がらせていた。
『赤城の山も 今宵限りか』
江戸時代後期、任侠の世界に生きた『国定忠治』の名台詞を吐いていた。
生まれは上野国の国定村。赤城の山を根城にして、関八州に睨みを利かす大親分。
天保の大飢饉がこの地方を襲ったとき、尚も搾り取ろうとする幕府に対して、賭場の収益金を分け与え、百姓町人を救済した人望熱き渡世人。
幕府の威信を失墜しかねない存在の忠治に、役人たちは何かと罪状をこじつけ、捕縛に躍起になった。
いよいよ追い詰められた忠治は、可愛い子分たちとの別れを惜しみつつ、やむなく赤城山を降り、やがて刑場の露と消えた。
磔の刑に処された忠治は、幾度となく槍を突き立てられたが、凛として弱音を吐かず。
意地の筋金と度胸の良さで、大親分らしく事切れた。
『男心に男が惚れて 意気がとけ合う赤城山 澄んだ夜空のまん丸月に 今宵横笛誰が吹く』
いっそ国定忠治みたく、たとえこの体が敵弾で蜂の巣にされようとも、熱き大和魂を燃えたぎらせ、最後の瞬間まで俺らしくありたい、と強く想った。
『悠久の大義に生きん』
特攻に志願したときから、祖国護持の礎になる覚悟を決めた。
何も思い残すことはない。只一筋に邁進するのみ。
満月の月明かりに照らされた美しい里山の夜が更けてゆく。
五月二十七日、いよいよ出撃の朝。
既に整備も済み、エンジン音が轟くなか、黎明の空に向かって五時きっかりに幻の特攻基地と呼ばれた万世飛行場を飛び立った。
愛機は中島飛行機社製の『疾風』。
故郷の誇りに我が身を委ね、目指すは激戦地、沖縄。
陸軍航空総監賞を受賞していた俺は、高度な飛行技術を買われ、隊長の僚機を務めた。
隊長機のやや左後方を援護しながらの飛行。更にその後方に大和が隊列を成して飛ぶ。
五時十四分、見渡すかぎりの大海原。
水平線からまばゆい光を放ちながら、太陽が昇り始めた。
澄み渡った空の青と深い海の藍。曖昧な境界線の向こうには、どんな世界が待っているのか。
青の彼方の交わるところで、俺たちは母なる海の一滴となり、天なる父のもとへと帰るのだろう。
俺も大和も数えで十八。ふと過ぎる里心に、済し崩しになりそうな脆い若者の心を、大義が必死で支えていた。
二時間弱の決死の飛行。海の色の微妙な変化に、刻々と迫りくる最後の時を悟った。
敵艦のレーダーをすり抜けるべく、海面ギリギリの危険な飛行が続いていた。
はるか前方に標的を捉え、緊張は一気に高まる。
「いよいよだな、尊。どちらが先に逝こうとも、靖国で会おうぜ!」
日本の航空技術が生んだ奇跡のエンジン『誉』が唸りを上げる。
「大和、いざ行かん! 死なばもろとも‼︎」
操縦桿を固く握りしめ、銃弾の雨の中を突き進む。
鈍い音を立て、光の矢が左目を貫通した。焼けるような痛み。何も見えない、何も。
「畜生! 目をやられた‼︎」
「しっかりしろ尊! 大丈夫、いい位置だ! 敵艦は目の前だ、操縦桿をしっかり握って、そのまま進めー‼︎」
わずかに視力の残る右目を、限界まで見開き、巨大な敵艦隊をめがけ、只一筋に往く。
酷い衝撃波とともに薄れていく意識。
やがて暖かくまばゆい光が俺を包み、壮絶な痛みも激情も引き潮のごとく遠退いていった。
そっと目を開ける。見慣れたカーテンの隙間からこぼれる朝日の煌めき。新しい朝が来た。
壁に掛けられた時計に目をやれば、五時を少し回っていた。
白根尊と名乗るもう1人の俺が、舗装もされていない粗末な滑走路を飛び立ち、海岸沿いに広がる松林を越え、紺碧の大海原へと決死の飛行に臨んでいる時間だった。
『孝一でなければ駄目なんだ』
唐突に差し出された傷だらけの硬球。所縁ある者の手を渡り歩きながら、引き継がれてきた魂のリレー。
「監督がおっしゃった意味が、ようやくわかりました」
夢の名残に寝覚めが悪い。
孝一はベッドから起き上がり、カーテンを開いた。
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