第六章   龍神   五

「孝一、ちょっとグラウンドを一周して帰りたい。車椅子を押してくれるか」

 握手をしようと差し出した孝一の左手を握りしめたまま、確氷は離そうとしなかった。

 痩せ細った手は、思いのほか力強く、暖かかった。

 孝一は小さく頷き、確氷の背後に回り込んだ。

 憧れの気持ちを抱きながら、遠くから見上げていた力強く大きな背中。

 それが、今こうして車椅子を押しながら見下ろす弱々しく小さな背中。

 車椅子のハンドルを握り、桜並木沿いを選んで歩く。

 時折吹き抜けていく風は心地よい揺らぎとなり、薄紅色の可憐な花弁を踊らせた。

 花の命も人の命も、儚き夢と散りゆくのか。今、この目の前の現実も過ぎ去れば儚き夢となる。

 一瞬たりとも留まらぬ時の流れの中で、これまでも、これからも夢の続きを見せられるだけ。ただ、それだけ。

「春はいい。長く厳しい冬を耐え抜いた、命の息吹に満ち溢れている。孝一、いよいよ始まるな」

 久方の光のどけき春の日に。

「もう一度マウンドに立てる日が来るなんて。監督のおかげです。あの時、あなたが手を

差し伸べてくれなければ、今の自分はありません」

(渡良世川は三途の川。危うく足を踏み入れかけた俺に、救いの手を差し伸べてくれた人)

「そういえば。約束していた話しを、まだしていなかったな」

 らしくない淡々とした語り口は、まるで遺言のようにも思えてくる。

「父がマウンドを降りた理由、ですか?」

 確氷からは何の返答もなかった。洋平の知られざる過去を知りたい気持ちはあるが、代償として確氷が遠い世界に逝ってしまうのではないかと恐れた。

 グラウンドを取り囲むように植えられた15本の桜の木の下で歩みを止め、ふと、群青色に映える空を仰ぎ見る。

 木々の隙間からこぼれ落ちる、午後の柔らかな日差しが綾成す光と影のコントラストに暫し見入っていた。

「孝一に初めて会ったときのことを思い出すなぁ。いい眼をしていた。少し陰りのある瞳の奥に見える微かな光には、底力があった。洋平も同じ眼をしていたよ」

『孝一。後ろ姿が父さんによく似てきたね』

 いよいよ富士寮に入寮する日の朝、いつも通り裏庭の龍神様を祀った御社の前で手を合わせていると背後で美佐子の声がした。

 振り向くと、微笑みながらも寂しげな眼差しにジンと胸が痛んだ。

(あれから一年の月日が経ち、俺は何か変わったのだろうか?) 

 分からない。だが、これだけは言える。

 限られた時間の中で与えられたリベンジのチャンス。マウンドに立つ時は、常に一瞬一秒が真剣勝負だった。

 たとえ、それが儚き夢と散りゆく運命であろうとも。

「久しぶりに顔を見て驚いた。若い頃の洋平に、よく似てきたな。覚悟を決めた潔さが感じられる。本気の顔だ。実にいい」


 

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