第五章   風立ちぬ   七

 日本選手権が終わるとシーズンオフに入った。この頃になると朝晩の冷え込みも急に厳しくなり、赤城山に初冠雪の便りも聞こえてきた。吹きつける赤城おろしが榛名山にも白い真綿のような冠を被せていく。

 凍てつく朝のグラウンド。太陽を背に受け、ランニングをする部員たちの吐く息があちこちで白く立ち昇り、澄み渡る青空に飲み込まれていった。

 一応の完成形をみたスクリューも、あとは実戦で手応えを確かめてみるしかない。

 次に覚えた球種はスライダーだった。

「アンダースローのスライダーは性質上ジャイロ回転(らせん回転)となり、ライズボールの浮き上がる球となる。変化球を使い分け、緩急を交えた投球で勝負していく」

 沼田の淡々と語る静かな口調の中にも、来季に懸ける並々ならぬ強い想いが感じ取れた。

 十一月の末には毎年恒例の県社会人野球連盟が主催する納会が、太田市内のホテルで盛大に行われた。

 富士重野球部をはじめ、県内クラブチームの関係者約八十名が出席した。

 先ずは連盟会長の挨拶に始まり、部長である沼田の挨拶が始まった。

「選手をはじめ、スタッフの皆さん。都市対抗の一次予選を共に闘った県内クラブチームの皆さん、そして応援して下さった皆さん。今年一年、ご苦労様でした。野球を愛し、真摯に日々の練習に取り組む全ての野球人の手本となるべく、我々富士重工野球部も更にパワーアップして参ります。変わらぬ御支援、御鞭撻のほど、何とぞ宜しくお願い致します。ありがとうございました」

 場内から割れんばかりの拍手が起こると、次は確氷の挨拶が始まった。

「あまりに素晴らしい沼田部長の挨拶の後で非常にやりにくいのですが」会場がドッと笑いに包まれた。

「ここ何年か、富士重工野球部も成績が振るいませんで。多方面の方々にご迷惑とご心配をおかけしております。名だたる企業でも休部や廃部が相次ぐなか、存分にやらせて頂けることは本当に有り難く、皆様の応援とお力添えがあってこそ、と深く感謝しております。来年こそは都市対抗で優勝旗を手にする姿を皆様にお見せできるよう、チーム一丸となって頑張って参ります。選手の皆さんも、今年一年お疲れ様でした」

 軽く咳き込みながら、確氷が深々と頭を下げた。

「監督、随分とほっそりしましたよね」

 隣に座る磯部が、ヒソヒソと耳打ちしてきた。

「さぁ、どうかな」孝一は素っ気なく返事をしたものの、一抹の不安が胸を過った。

 節分の夜に吐血しながらも、自らの信念を貫き通した鬼の姿が記憶に蘇る。深刻な症状である事は容易に想像できた。

 突如湧き上がる最悪な結末を、慌てて揉み消す。

 退屈な挨拶が終わると乾杯の音頭と共に、あちこちでグラスをぶつけ合う音が響いた。

 談笑に花が咲く賑やかな会場で、孝一は確氷の姿を目で追っていた。

 沼田の隣にいるはずの、大きな背中が見当たらない。どこへ行ったのだろう。

 並々と注がれたビールを一口、乾いた喉に流し込むと、会場を見回した。だが、やはり居そうにない。

「ちょっと、トイレに行ってくる」

 磯部に言い残して、席を立つ。ロビーに出てすぐのトイレから、苦しそうに咳き込む声がした。確氷に違いない。

 いけないものを覗き見る子供のような心境で息を潜め、静かな足取りで中に入っていく。手洗い場の水道が出流れのまま、確氷が苦しそうに背中を丸めている姿が見えた。

 気配を感じたのか、確氷は口に手を当てたまま僅かに顔を上げた。

 鏡に映された指の隙間からは、鮮血が滴り落ちている。

「監督! 大丈夫ですか‼︎」

 駆け寄ろうとすると、鏡越しの招かれざる客人をキッと睨みつけてきた。

「いいか、誰にも言うなよ。心配ない、いつもの発作だ。すまんが、出て行ってくれないか」大きく丸まった背中が、頑なに拒んでいた。

 確氷は再び激しく咳き込むと「すぐに治まる! 頼むから一人にしてくれ‼︎」

 あまりの鬼気迫る形相に言葉を失った孝一は、言われるがまま、その場を後にした。

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