第五章   風立ちぬ   七

 静かなロビーから再び賑わう会場へ戻ると、優秀選手賞の表彰が終わり、今季限りで引退する選手の紹介が行われるところだった。

 鏡越しの幻影を引きずったまま、孝一はさり気なく席に着いた。

「遅いっスよ、何やってたんすか。草津さんの引退セレモニーが始まるところです」

 磯部がそっと耳打ちする。

 エースの草津が眩しそうにスポットライトを浴びながらステージに上がった。

 司会者のナレーションにより、次々と切り替わるスライド写真。草津のこれまでの活躍を振り返りながら、会場は大いに盛り上がった。

 一番の見せ場は、二〇〇六年の日本選手権で二度目の優勝を飾った場面だった。そこにはチームを日本一に導いた勝利投手としての誇らしげな顔が映し出されていた。

 場内からは割れんばかりの拍手が巻き起こり、感極まった草津が目頭を押さえて涙を堪えている姿が印象的だった。

 それから程なくして確氷が戻ってきた。何事も無かったと言わんばかりに。涼しい顔でテーブルに着く姿を、孝一はずっと目で追っていた。磯部の言う通り、確かに一回り体が小さくなった。

 初めて確氷に会ったときに感じた、大きな堂々とした男の背中。吹き荒ぶ風のなか、腕組みをして仁王立ちする姿は、雷神と一対に描かれる風神そのものであった。

『風立ちぬ』

 嵐の時は過ぎ去り、やっと訪れた静かで穏やかな日々に、再び風が立った。

(あの日。俺の周りに風が吹き始めたんだ。風神が巻き起こした嵐の渦に、いとも容易く呑み込まれた俺が、今度はマウンドで嵐を起こす者となろう)

 思い描くだけの夢は具体性のある目標へと形を変えていった。

 忘れもしない。赤城おろしに荒れる節分の夜、いきなりやってきた二匹の鬼。命懸けで産んだ我が子を守る母と、どうしてもその子が欲しい、と一歩も譲らぬ鬼。

 両者が睨み合うなか、一匹の鬼の我が身を顧みない命懸けの血判状に根負けした母。

 あの日から一年が経とうとしているのに、鬼の病は一向に良くなる気配がなかった。素人目から見ても、病状は深刻なものと窺えた。

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