第四章   風神   八

 大寒を境に、寒さはより一層厳しさを増していた。凍てつく大地の下では、春を待ち侘びる健気な命の鼓動が、一斉にリズムを刻んでいた。

 冬枯れの庭には雪割草や色とりどりのクロッカスが早春の陽を浴びて、一斉に花開き始めていた。

 暦が変わると、二月をテーマに創作した新作の和菓子がショーケースを飾った。

 今日は節分だった事もあり、赤鬼青鬼をモチーフにしたお饅頭や、糖衣の炒り豆に五色の色を付けた五色豆が飛ぶように売れた。

 店の賑わいは途絶えることなく、美佐子も上機嫌で接客にあたっていた。

「今夜七時に、碓氷監督と部長さんが来るそうだ。昨日の夜、電話が来たよ」

 出来立てのお饅頭をショーケースに並べていると、そっと洋平が耳打ちしてきた。

 一瞬、手の動きが止まり、みるみる体が強張っていくのを感じた。

「母さんには、なんて言ったの?」

「幼なじみが訪ねてくるから、一時間早く店を閉めると言っておいた。いよいよだな」

 小さく頷いた瞬間、フリーズしていた身体が勝手に動き出す。

 すっかり仕事の手順を記憶した左手は、てきぱきと、しかも正確に決められた作業をこなしていた。

 身体は記憶している。過去の全てを。

 マウンドを蹴り上げるときの土の香り、夏の照りつける太陽が肌を焦がすヒリヒリとした痛み。

 思い通りにならない左腕、背骨を伝う冷たい汗。黒く塗りつぶされた白球の記憶。

 七年の時を経て、再びマウンドに立てるチャンスが巡ってきた。 

 辞めておけばよいものを、敢えて白に塗り替える決意を固め、覚悟の筆を取った。

 身体に染みついた『感覚』だけを頼りに。

 

 午後の二時を過ぎた辺りから急速に雲行きが怪しくなってきた。赤城の山は霧状の雪雲に覆われ、すっかり姿を隠していた。

 長い裾野を駆け降りてきた赤城おろしが、榛名山の麓にまで吹き付け、大荒れの空模様となってきた。

 まるでこれから起こる嵐の幕開けを予感するように。

 柱時計が六の刻を告げる頃には、吹き荒ぶ風に混じって雪が飛んできた。

「お父さんの幼なじみの碓氷さんて人だっけ? こんな天気で大丈夫かしら」

 背伸びしながら店の暖簾をおろす美佐子が、すっかり日の暮れた空を心配そうに見上げた。

「ちょっと電話してみるか。スタッドレス・タイヤを履いていれば大丈夫だとは思うが」

 洋平がレジ横にある電話に手を伸ばそうとしたとき、けたたましく呼び出し音が鳴った。なんというタイミングなのだろうか。

 時折笑みを浮かべ、親しそうに話をしている洋平の様子を見る限り、碓氷に違いない。

「それじゃあ、気をつけて」

 洋平は受話器を置くと、孝一に目配せしながら小さく頷いた。

「碓氷さんからだったよ。こんな天気だから早めに出発したらしい。もう近くまで来ているみたいだから、急がせて悪いが、母さんはお茶の用意をしてくれないか。あとは孝一と片付ける」

 せわしく閉店の準備を進める洋平に、一瞥するような視線を投げかけ、美佐子が店を出て行った。


 

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