第四章 風神 七
閉店の準備が途中だったので、再び店に戻って片付けを始めた。そうこうしているうちに、洋平もやってきた。
「突然の訪問客に驚いただろう。おっ、これみんな碓氷さんが買ってくれたのかい?」
売り上げ伝票を眺めながら、何食わぬ顔で訊ねてきた。
「父さんの幼馴染みなんだって?」
こちらも敢えて素っ気なく答えた。
「そうだ、豪快な男だろう。俺も若い頃はけっこう無茶をしたが、確氷さんにだけは歯が立たなかったよ」
小さく頷きながら、あの大きな背中を思い出していた。
「富士重工業野球部に来てくれないかと言われたよ」
手だけはそそくさと動かしながら、次々と売れ残った生菓子を下げていく。
「それで、お前はなんと返事をしたんだい」
「少し考えさせて欲しいと言ったよ。店の事もあるし、七年のブランクもある。それより何より。今さら、もう一度野球をやらせてくれなんてとても……」
重苦しい沈黙の間を、柱時計の時を刻む音が紡いでいく。
「孝一。ちょっとここに来て座りなさい」
窓際に置かれた休憩用の長椅子に腰掛けた洋平が手招きをした。
すっかり空になったショーケースの明かりを消して、言われるがまま隣に腰を下ろした。
洋平は不自由になった右腕を摩りながら、大きく一つ、息をした。
「お前の正直な気持ちを聞きたい。どうなんだ、もう一度マウンドに立つのか」
いきなり核心を突かれ、少々面食らった。
「立ちたいと言ったら?」
曖昧な物言いで、洋平の出方を伺う。
「お前が本気なら、碓氷さんに預けてもいいと思っている」
洋平の出したサインは、迷いのないストレートだった。
もう一度マウンドに立てるチャンスが巡ってくるなんて、思ってもいなかった。
挑戦するのか、しないのか。どうするんだ、オレ。
孤高のマウンドから放たれる白球を、扇の要がどっしりと構えて待っていた。
「父さん、この機会を逃したくはありません。俺は馬鹿だった。マウンドを降りれば、全ての苦しみから解放されると思ったんだ。ところが、それは新たな苦しみの始まりに過ぎなかった」
激しい後悔の念は、やがて自分自身に向けての怒りに変わっていった。
自分自身に向けた怒りは、罪悪感に取って代えられ、静かなる絶望のなか、懺悔の祈りを捧げる日々を送ってきた。
神様。この愚かしい罪と罰に、終止符を打たせて下さい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます