第四章   風神   七

 すっかり日も暮れて、柱時計が七の刻を告げたのを機に、店のブラインドを降ろし始めた。

 結局あれから訪れる客はなく、売れ残った生菓子を下げているところに洋平たちが帰ってきた。

 窓越しに、車から降りた洋平が手招きする姿が見えた。

 店を出て車窓を覗き込むと、すっかりご機嫌な様子の美佐子が助手席にだらりともたれかかっていた。しどろもどろの口調で、しきりにブツブツと訳のわからない言葉を吐いている。

「母さん、相当に出来上がってるね」

 日頃から酒を飲む習慣がない美佐子は、コップ一杯のビールでも酔うに充分だった。

「久しぶりに兄弟が勢揃いして嬉しかったんだろう。注ぎに回りながら注がれて飲んでしていたら、すっかり酔いが回っちまったらしい。孝一、母さんを背負ってくれ」

 相変わらず管を巻く美佐子を宥めすかしながら洋平の手を借り、なんとか背負い込んだ。

 気合いを入れて身構えたものの、すんなりと立ち上がれた事にいささか呆気に取られていた。

 こんなに軽かったっけ。もともと小柄で痩せ型ではあったが、ずっしりとした重みを感じられないのは、やはり寂しいものだ。

「ほら、母さん。しっかり掴まってくれよ」

 ふにゃりと靠れ掛かる美佐子の体は何とも頼りなげで、時折背負い直しながら歩いた。

「夕焼け小焼けで日が暮れて〜山のお寺の鐘が鳴る〜ってさ。孝一を子守しながらよく歌ったもんだよ。ねぇ、憶えてる?」

 おもむろに口ずさんだ懐かしい童謡は、幼き頃にいつも母の背中で聞いていた甘く切ない子守唄。

「憶えてるさ。店が忙しいときはほとんど一日中おんぶだったもんな」

 美佐子の背中は、いつも眠りを誘う心地よいゆりかごだった。

「孝一には随分と寂しい思いをさせたね。本当に大人しい子でさぁ。滅多にわがままも言わなかったし、困らせられた覚えがないのよ。我慢強かったしね」

 背中で受け止める言葉は、どことなく侘しさが感じられた。

「孝一さぁ……後悔してないかい?」

 下弦の月が薄っすらと足元を照らすこんな夜、人は胸に秘めたる想いを打ち明けたくなるのだろうか。

「後悔って、何をさ?」

 一瞬歩みを止め、次の言葉を待つ。

「和菓子職人になったこと」

 ズルイよ、母さん。今頃になって、そんなこと言うなんて。

「もっとやりたかったんだろう? 野球。孝一が裏庭でネット相手に投げてる姿を見るたびに母さん、堪らない気持ちになるよ。これでよかったのかな、って」

 渡良世橋を歩く碓氷の後ろ姿が脳裏を過ぎった。

「母さん、あのさ」

玉砂利を踏む靴音だけが、暫しの沈黙をつないでいた。

「なんだい、言いたいことがあるなら言いないねぇ。酔っ払いはさぁ、いちいち覚えちゃいないよ」

 喉元まで込み上げてきた言葉を強引に呑み込んだ。やっぱり今は、やめておこう。

「いや、なんでもない」「やっぱり言わなくていい!」

 二人同時に吐き出した言葉が、互いの想いを遮った。

 裏玄関の外灯が点り、開け放した扉の向こうから「お〜い、母さんを和室に連れて来てくれ」と、洋平の声がした。

 玄関を上がってすぐ左手の二間続きの和室には、既に布団が敷かれており、洋平と二人がかりで寝かしつけ、そっと灯りを消して部屋を出た。

 

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