第四章   風神   七

揺れる心。ふと、険しい美佐子の顔が脳裏に浮かんだ。

『可愛い子には 旅をさせよ』

 百歩譲って大切な店の後継ぎを送り出したものの、夢破れ舞い戻ってきた。

 頼りない後釜も、ようやく腰を落ち着けて店も軌道に乗り始めた矢先である。

 もう一度旅に出たいと、チャンスをくれと言えるのか。

 美佐子を本気で怒らせたときの凄まじさを知っているだけに、想像するだけで身が凍りつく思いがした。

『勇者の儀式』で起きた修羅場は、忘れようにも忘れられない。

 春まだ浅い渡良世川の水は冷たく、橋の欄干から飛び込んで気絶した俺は、危うく命を落としかけた。

 伝説の主との戯れから目覚めると、そこには美佐子の姿があった。

 ほっと安堵したのも束の間。色白の鼻筋がスッと通った穏やかな眼差しの観音菩薩は、見る間に恐ろしい夜叉に変化した。

 いきなり胸ぐらを掴まれ、再び気絶するのではないかと思われるほどの平手打ちを御見舞いされた。

 鬼の目にも涙。

 美佐子の頬に一筋の光るものを認めたとき、己の浅はかさを心から詫びた。

 心がジンと痛かった。

「孝一。和菓子職人への道は、そんなに甘いものじゃないぞ。作品の一つ一つに、作り手の全てが表現される。未完の想いを胸に秘めたまま、完成された作品を作る事はできない」

 確かに、洋平の言う通りだった。時折、自分がメビウスの輪に迷い込んだ小さな蟻みたく思うときがある。

 進んでも、進んでも何処にも辿り着けず、堂々巡りの目くらまし。

「孝一には、立派な四代目なってもらいたい。だが今はまだ、そのときではない」

 メビウスの輪から外れて、一歩を踏み出す勇気が欲しい。これから先、どのような世界が待ち受けていようとも。

 行かなければならない。今がそのとき。

「俺、もう一度マウンドに立ちたい。碓氷さんが言ってくれたんだ。もう一度投げられるようにしてやる、って」

 碓氷の言葉を信じたい。胸の奥から湧き上がる熱い想いに後押しされ、このままでは終われない。終わらせやしない。

「チャンスを無駄にするな。マウンドでの恐怖心を克服するためには、再びマウンドに立つしかない。自ら恐怖の渦に飛び込んでいかなければならない」

 俺は再び、混沌とカオスに満ちた渦の中に飛び込もうとしていた。

 何のために? 失われた自信と誇りを取り戻すために? それとも……

人生には、避けて通れぬ道がある。

 次のステップに進むための、超えねばならない壁がある。

「恐れの渦で溺れる事もあるだろう。それでもマウンドに踏ん張って立つんだ。固く閉じた目をしっかと見開き、真実を見ることだ。やがてお前を苦しめていたモノの正体が明らかになるだろう」

 俺を苦しめていたモノの正体とは何なのだろう。背後に纏わり付く陰鬱とした暗い影。

それはまるで、実体のない幽霊のようだった。往々にして、人は実体のない幽霊に怯え、つまらない過ちを犯す。必ず訪れるであろう、夜明けを待たずに。

 砂漠に浮かび上がる蜃気楼に、真のオアシスはない。

 飢えた心は、どこまで行っても辿り着けない幻を信じ、やがて絶望のなか、力尽きるのだろう。

 

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