第四章 風神 六
「そこに見えるのが渡良世橋だね。良き世を渡る橋か。あの世とこの世を結ぶ架け橋といったところかな」
そんなロマンチックなものではない。
「子供の頃から渡良世橋が嫌いでした。大人になった今でも、やはり好きになれません」
渡良世橋は三途の川に架かる橋。梅ちゃんに真琴、敬三爺ちゃん。俺の大切な人たちは、もう二度と戻っては来ない。
「なぜたい? 見れば美しい橋なのに。さては、恐ろしい伝説の白龍とやらに魂を喰われたか」
確氷の真っ直ぐな視線が、俺の中に燻る影を炙り出す。
「そんなんじゃありません」
そう、俺は確かに臆病者だ。だが、魂まで売った覚えはない。
決して癒えることのない、この胸の奥深く刻まれた悲しみと怒り。龍神さまは誰も救ってはくれなかった。
「似たような伝説は各地に残されている。人の心には魔物が棲んでいるものだ。龍や蛇、鬼に妖怪。姿は違えど、どれもみな人間が心に抱える闇を表したものに過ぎない」
十一歳の誕生日を迎えて間もなくのこと。春まだ浅いこの川で、俺の勇気は試された。
服を脱ぎ捨て、橋の欄干によじ登る。仁王立ちになった俺は、悪友どもの羨望の眼差しに踊らされ、怪しげな煌めきを放つ川面を目指して潔く飛び降りた。
酷く冷たい川の水に、全身を串刺しにされたような衝撃と痛みが走る。
次第に薄れゆく意識のなかで、俺は伝説の白龍と出逢った。
深紅の血色に染まった剥き出しの目は、もの凄い形相で俺を睨みつけた。
《オマエハ ダレダ》
俺は臆する事なく答えた。俺は俺だ、と。
絶体絶命の緊迫した状況のなか、苦し紛れに吐いた捨て台詞とも違う気がした。
俺は俺以外の何者でもなく、他に言葉が見当たらなかった。
なにを隠すでもない、偽るのでもない。
全てを脱ぎ捨てた誉れ高き裸の心は、まことの勇気と強さに満ち溢れていた。
あの時の俺は、何者でもあり何者でもなかった。『自分』という狭い枠を飛び越えて自由の翼を広げ、どこにでも飛んでいけそうな気がした。怖いものなど、何もなかった。
「孝一君。君は龍の餌食になるなよ。龍を手懐ける男になれ。近頃では魂を喰われた生きる屍のような奴がウヨウヨしている。目を見りゃすぐに判るよ」
手懐ける? どうやって? 荒れ狂う龍の恐ろしさは、嫌というほど知っていた。
そいつはいつも、一瞬の心の隙を狙って情け容赦なく踏み込んできた。
或る時は、窮地に追い込まれたマウンドで。また、或るときは、心の古傷が疼くとき。それから、自分自身に背くとき。
そいつは常に闇の中でじっと息を潜め、とぐろを巻き、絶好の獲物を狙っていた。
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