第四章 風神 六
「それができれば、苦労はしませんよ」
ふと口を突いて出た言葉に、碓氷が敏感に反応したのがわかった。
「今日、君に逢いに来て良かった。はっきり言おう。孝一君、君は死にかけてる」
俺が死にかけてるだって? バカバカしい。今だってこうして、なんとか生きてるさ。なんとか生きてる?
「それは、どういう意味でしょうか」
碓氷は冷めた笑みを浮かべると、無言のままコートのポケットに手を滑り込ませた。それからくるりと向きを変えて、渡良世橋に続く土手の道をゆっくりと歩き始めた。
霜が溶けてぬかるんだ道を、ズブズブと踏みしめながら後に続く。
時折強く吹き付ける風が、二人の隙間を縫いながら駆け抜けていった。
碓氷は、橋のたもとまで来ると足を止めた。大きな背中がちらりと後ろを振り返る。
肩で大きく一つ息をしてから、再び前を向いて橋を渡り始めた。
靴底にこびり付いた泥まみれの足跡が、点々と道標のように続いていく。
橋の中央に差し掛かった辺りで、碓氷は再び歩みを止めた。
碓氷は欄干に両手をかけると、暫し眼下を流れる渡良世川を見つめていた。
川面に乱反射する光、せせらぎの音、羽ばたく白鷺、冬枯れの桜並木。
「孝一君。なぜ君は私に従いてきた?」
問い質されて、何も答えられなかった。
「どうした。なぜ答えられない?」
尋問は続いた。
「それは、ただ、なんとなく……」
轟々と吹き抜ける風が、曖昧な言葉をさらっていく。
「いいかい、孝一君。たとえは悪いんだが。君は今、まさに三途の川のど真ん中に立っている」
瀕死の心臓にガツンと一撃を喰らい、鼓動が乱れる。
「このままいけば確実にあの世行きだ。二度と元には戻れん。しかし、今ならまだ引き返せる。息を吹き返せば、もう一度リベンジできるぞ。さぁ、どうするか」
命を繋ぎ止めるための電気ショック療法なのか。荒療治により、俺の中の『なにか』が息を吹き返そうと、もがいていた。
しっかりと生きることもできず、しっかりと死ぬこともできない。
どっちつかずの、あやふやな魂は行き場を失くして彷徨っていた。
「ちょっと待って下さい。私にどうしろと?」
碓氷は瀕死の若者を真っ直ぐに見つめ、最後の処置を施した。
「富士重工業野球部に来てくれないか。あらかたの経緯は洋平から聞いている。君はまだまだ投げられる」
臆病風に吹かれ、逃げるようにマウンドを降りたあの夏がよみがえる。古傷を覆い隠すかさぶたは、まだ剥がれてはいなかった。
「無理です。私は大学時代に肘を壊してから、まともな投球ができなくなりました。とても使いものにはなりませんよ」
これで全て終わり。お陀仏だ。碓氷も諦めるだろう。
「まぁ予想通りの返事だな。私はね、勝算のない賭けはしない性質だ。無駄足を踏む気など、更々ない」
数々の修羅場をくぐり抜けてきた勝負師である。簡単に引き下がる筈もない。
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