第四章   風神   三

 再び、うんざりするほどの渋滞の列に並び、家にたどり着いた時には八時をとうに過ぎていた。

 帰りを待ってくれている灯りがあることの、ささやかな幸せを感じながら車を降りた。

「ただいま」と玄関の扉を開けると、香ばしい油の匂いに紛れて、ほんのりとゴボウの泥臭い匂いがしてきた。

 今日の夕食はけんちん汁に違いない。

 急にこみ上げてくる空腹感。そういえば昼飯を食べていなかった。

 武尊のアパートでは、こんな生活感漂う香りは微塵も感じられなかった。

 この煩わしくもあり、愛おしくもある日々の営みが、生きていくということ。

「お帰り、遅かったね。けんちん汁ができてるよ」

 せっかちな美佐子は、孝一の返事も聞かずに、そそくさとガスコンロの火を点けた。

 居間の炬燵では、洋平が肩肘ついた格好で寝転がって、お気に入りのドラマに見入っていた。

「おう、孝一。帰って来たんか、道路は凍ってなかったか?」

 テレビからは一切目を離さず、素知らぬ振りで放蕩息子の帰宅を歓迎してくれた。洋平の無干渉は、ときに無関心と捉えられ、それが過干渉の美佐子との諍いに繋がる場面も度々あった。

 だが、程々にバランスが取れていて、孝一には有難くもあった。

 しかし、洋平は決して無関心なのではなかった。なぜなら、孝一の交友関係も知っていたし、誕生日のプレゼントには何が欲しいか知っていた。

 少年野球の試合が近所で行われる際には、こっそりと見に来ていたことも知っている。

 美佐子は過干渉の割には、孝一の気持ちに疎いところがあった。

 孝一が高校生にもなると、平気で誕生日を忘れていたりもした。今日はなんの日かとたずねると、慌てて思い出し、苦し紛れに言い訳を並べたてる始末。なかなか強情である。

 認めたくはないが、自分は両人の遺伝子を確実に受け継いでいると苦笑した。

「熱いうちに食べないねぇ」

 人参、ゴボウ、里芋にコンニャク、白菜に葱に砕いた豆腐。具沢山のけんちん汁は、上州人が好んで食べるご馳走の一つで、これさえあれば、おかずはいらない。

 沢山に油が入っていて火傷しそうなほど熱い汁を啜る。空っぽの胃袋に、郷土料理の優しい味がしみわたっていった。

「そういえば。孝一あてに、二回も電話がきたよ。ねぇ父さん」

 聞こえているのか、いないのか。洋平はコマーシャル画面に切り替わっても目を逸らさなかった。

 また、下らない勧誘の電話に違いない。最近やたらと怪しい電話がかかってきて、ほとほと困り果てていた。

 大して興味も湧かないが、話の種に「誰から?」と尋ねた。

「それがね、富士重工の《ウスイ ヘイハチ》って言ってたかな。孝一は心当たりあるかい?」

 突然、洋平が咳払いしながらムックと起き上がり、部屋を出で行った。どことなく不自然な背中が気にかかった。

「聞いたことがあるような気もするけど」

 思い出しそうで、思い出せない歯痒さのなか、記憶の片隅で確かに存在する名前だった。

《ウスイ ヘイハチ》

 テレビを見ていても、風呂に入っていても、何をしていても頭から離れない。

 業を煮やし、パソコンで富士重工のホームページを開いてみた。何か手掛かりが掴めるかもしれない。

 企業紹介のトピックから検索を重ねてSUBARU 運動部にたどり着く。運動部といえば、硬式野球部の存在は欠かせない。

 おぼろげな記憶の点と点が一つの線で繋がりそうな予感に胸が騒ついた。

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