第二章   雷神   一

「見えてきた、あそこの居酒屋よ。つまみも沢山あるし、地酒も色んな種類が置いてあって、人気があるのよ。今日はとことん飲み明かしましょ!」

 真琴はしっかりと腕をからませたまま、二人を引きずるように早足で進もうとする。

 小さな五階建ての雑居ビルは、一階からすべてスナックやバーが占めていた。二階の《居酒屋 絆》の赤い看板を照らす電球が、今にも切れそうにチカチカと怪しげな光を放っている。

「ねぇ、階段とエレベーター、どっちにする?」と息を弾ませ、真琴が訊ねた。

 正面入口から突き当たりのエレベーターに続く狭い通路には、雑然と物が置かれていた。

 開け放された扉から漏れ出す刺激臭は、シンナーの匂いだった。

 孝一が中を覗き込むと、山積みの荷物に紛れ、男が蹲っていた。

 金髪にピアス、サテンの派手な黒いスーツが、滑らかな光沢を放っている。

「階段にしようぜ」

 脳天にまで突き抜けて行く異臭に、孝一は思わず顔をしかめた。

「なに見てんだてめぇ、殺すぞ」

 ろれつの回らない声で、男が気怠げに顔を上げた。

 口元に薄笑いを浮かべ、ギラギラと血走った目が、獲物を狙う爬虫類の如く品定めする。

 一度でも見たら、忘れられない顔だった。

 とっさに孝一は真琴をかばうべく、一歩前へと歩み出た。 

「なんだ? やんのか」 

 男がのろのろと立ち上がる。

 肌けたシャツの胸元に見え隠れする刺青。

 ちらりと武尊を見やると、小刻みに体が震えていた。

「面白れぇ、武者震いがすらぁ」

 既に臨戦態勢の武尊を「ばか、やめとけ。素人に太刀打ちできる相手じゃねぇ。真琴もいるんだぞ!」声を押し殺して諌めた。

「シンナーでイカれてんだ、構うもんか!」

 武尊が吐き捨てた。普段は温厚だが、しばしば感情の抑制が効かなくなることがあった。 

「あの子の父親は、ヤクザもんだから」

 母の美佐子が何気なく放った言葉が脳裏を過ぎった。

 孝一は「すいませんでした」と深々と頭を下げ、次いで「堪えろ!」と鼻息荒い武尊の頭を強引に押さえつけた。

 孝一の手を払いのけようとする武尊を、尚も強く押さえつける。

 男は孝一たちを嘲るように「消えな」と一瞥すると、再びよろよろと蹲った。

 今度は孝一が真ん中になり、そそくさと二人を引っ張っていく。

 納得のいかない武尊は、駄々っ子のように固く体を強張らせていて、連れて歩くのに一苦労した。

 小さな雑居ビルをぐるりと回り込むと、あちこち塗装の剥げた粗末な非常階段があった。

 緊張の糸が切れたのか、真琴が大きく肩で息をした。

「大丈夫か、マコ。怖かったよな」

 何故だろう。白いコートの背中が今日はやけに小さく見えた。

 孝一は奇妙な胸騒ぎを覚えたが、いつもの考え過ぎる悪い癖と、無理矢理掻き消した。


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