第一章 なごり雪 五
慌てて追いかけてきた梅吉の荒い息遣いが、身勝手な妄想を脇に押しやった。
「やっぱ現役の選手は速ぇや。俺も孝一の年頃にゃあ、ただひたすら突っ走ってたいなぁ。立ち止まる事なんざぁ忘れてたぃ。でも、それが若けぇってことかもしんねぇなぁ」
額にうっすらと滲む汗を手のひらで拭いながら、梅吉が肩で大きく一つ、息をした。
「見事だなぁ〜、梅ちゃん」
こんなにじっくりと桜を眺めるのは、何年ぶりだろう。
「この桜は俺の生まれるずっと前から此処で咲いてて……これからもずっと変わらず、此処で咲き続けていくんだんべなぁ」
梅吉は夜空を彩る可憐な花々を、それはそれは愛おしそうに見つめていた。
「俺は桜を見るたびに思うでぇ。人生色々あるけどさぁ、もうひと花、もうひと花って頑張ってさぁ。この桜みてぇに一つ一つは小さな花でいい。枝いっぱいに咲かせてよぉ、最後は潔く、パーっと見事に散って逝きてぇってな」
乾いた土を払いながら、ゆっくりと起き上がった孝一は、堪らず梅吉に背を向けた。
「なんでぇ〜孝一、どうしたやぁ」
顔を覗き込もうとする梅吉に「なんでもねぇよ」わざとぶっきらぼうに答えた。
止め処なく流れては落ちる涙の訳を、今は話したくない。
梅吉は自転車を店の脇に止めると、相変わらず建て付けの悪い入口の引き戸にブツブツと文句を言いながら、開けっ放しのまま、店の中へと消えていった。
「孝一〜、どうしたん? 入りなぃ」と、店の奥から威勢の良い声が聞こえてくる。
「今、行くよ‼︎」
涙に霞む目で、もう一度、桜を見上げてみる。ひとひらの花びらが、孝一の肩にひらひらと舞い降りてきた。
そっと手のひらで包み込むと、たまらなく愛おしさが込み上げてきた。
梅吉の「もうひと花」に込めた想いが、わかるような気がした。
年季の入った赤い暖簾をくぐると、白熱電球の柔らかな明かりが迎えてくれた。
カウンター席が五つに、テーブル席が二つの狭い店だったが、居合わせた者同士が自然と言葉を交わせる窮屈さに、梅吉の飾らない人柄も加わって、結構な賑わいを見せていた。
高校時代、野球部の厳しい練習の後には、武尊たちと立ち寄るのが習慣になっていた。
孝一は、育ち盛りの旺盛な食欲に任せて、大盛りもぺろりと平らげたものだった。
「ボーッと突っ立ってねぇで座りなぃ」
梅吉がカウンターの一番奥の席を指す。
促されるまま、ゆっくりと腰を降ろした。
茶色くすすけた店内、木の壁の落書きは、野球部の連中の仕業だった。
朝採りの嬬恋キャベツがザクザクと瑞々しい音を立て切られていく。
油の跳ねる音、ツンと鼻をつくソースの匂い、小気味良く動くフライパン。
「お待たせ! 久しぶりだんべぇ。食ってみろやぁ。紅生姜と青海苔は自分で入れなぃ」
手際良く盛り付けられた焼そばからは、白い湯気が立ち上がる。
「たまんないね、香ばしいソースの匂い」
五感の全てが刺激され、やはり夢などではないのだと、ほっと安堵の息が漏れた。
「そうだんべぇ。熱いうちに早く食えやぁ」
昔から変わらずせっかちな梅吉に急かされ、慌てて割り箸を探した。
「美味い! やっぱり梅ちゃんの焼そばが一番だいねぇ」の一言が聞きたかったのだろう。常連客なら誰もが知っている、梅吉を最も喜ばせる褒め言葉だった。
「それはそうと、梅ちゃん。肝心のあれ、ちょうだい」
下手な落語家よろしく、二本指を口元に運ぶ真似をしてみせた。
「あぁ、そうか。悪りぃ、悪りぃ」
カウンター越しに差し出された割り箸に手を伸ばすと、節の太い、ゴツゴツとした手に触れた。ひどく冷たかった。
渡良瀬橋と同じ、毒々しい朱色のバス。
美しい車掌。孝一を捉える氷のように冷たい手。
「深入りしてはなりませんよ」
耳元で囁く無機質な声。
「やはり俺は、いかれちまったのか」
夢とも現実ともつかぬ連想ゲームが続いていた。
「おい、どうしたん、誰がイカれてんだ?」
梅吉が怪訝そうな顔で孝一を見つめた。
「なんでもねぇ」と、ぶっきらぼうに返した言葉の裏側を、香り立つ湯気が曇らせる。
「どうもおめぇは、いまいち解んねぇとこがある。まぁ、いいやさぁ。食いなぃ」
孝一は『思い出焼そば』と書かれた赤い包み紙から割り箸を取り出すと、先ず合掌して「いただきます」と、丁寧に一礼した。
箸の持ち方にうるさかった、敬三の教えだった。ひとつまみ、口に運ぶ。
少々濃い目の味付けに、胡椒の効いた懐かしい味が、口の中に広がった。
「どうだやぁ、うんめぇかい?」
満面の笑みを浮かべながら梅吉が言った。
「もちろん。梅ちゃんのが一番美味いに決まってるよ。変わらないね、この味は」
太麺に絡みつく、ねっとりとした甘辛いソースの香りがツンと鼻から抜けていく。
「この道四十年、これが俺の味だ。誰にも負けねぇ」
一切の妥協も許さない、厳しさの中に垣間見える自信と誇りに満ちた眼差しは、和菓子職人だった敬三の真っ直ぐな眼差しと重なって見えた。
白い楕円形の皿が空になるまで、二人は一言も言葉を交わさなかった。
思い出の味を、再び舌にしっかりと記憶しておきたかった。
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