第一章  なごり雪  五

「どんなに可愛いがってたか知れねぇで。うちの孫にゃあ野球の神様がついてるんだって。店に来ちゃあ孝一の自慢話ばかりしてたんだからさぁ」

 敬三は孝一が中学二年生のとき、好きだった朝風呂に浸かりながら、浴槽の中で息絶えていた。

「どうした、孝一。具合でも悪りぃか?」

 まだ半分も吸っていない煙草を親指と人差し指で揉み消す癖も、昔のままだった。子供の頃に何度となく目にしていた光景を眺めながら、ふと、あの質問をしてみようと思い立った。

「梅ちゃん、熱くないんかい?」

 梅吉から返される言葉は、いつも同じ

「あんじゃぁねぇよ」だった。

 表情一つ変えず、秘密のワードを完璧に言い当ててみせた。

 闇夜に吸い込まれていった煙の残り香に、胸の奥が疼く。

「さぁ、行くべぇや。橋渡り切りゃあ、もうすぐだでぇ」

 自転車の車輪が、再びカラカラと軽妙な音を立て、回り始めた。

 小太りの小さな背中を見失わないように、慌てて後を追った。

「ほら、俺の店が見えてきたでぇ。懐かしいだんべやぁ」

 川沿いの土手を横切り、緩やかな坂を下りてすぐの十字路を右に曲がると、気まぐれな風に紛れて控えめな甘い香りが鼻腔を擽った。

 瞼を閉じ、もう一度、深呼吸してみる。

「枝垂れ桜の香りだ」

 渡良瀬川を挟み、両岸の土手沿いには、一キロメートルに亘り、等間隔に枝垂れ桜が植えられていた。

『桜の小径』と名付けられた、舗装もされていない細く長い道は、満開の時季には夜もライトアップされ、昼間とは一味違った幻想的な姿を晒し、訪れる人々の目を楽しませた。

 夕刻になると、並木伝いに赤提灯の灯りがともり、薄桃色の可憐な花びらが天から流れ落ちる滝の如く浮かび上がるさまは、誠に荘厳で絢爛豪華の一言につきる。

 見上げるほどに大きく、優雅に枝を垂らし、春の麗かな風にそよぐ桜を見るのが孝一は好きだった。

 独特の甘い香りに誘われて、思わず桜のアーチの中を、全速力で駆け抜けたい衝動に駆られた。

 高鳴る胸の鼓動。

「うぉ〜っ‼︎」と叫び、走る、走る。

 甘く切ない風を切って。

 時の流れに逆らいながら。

 月明かりが照らし出す、細く長く伸びる影分身。執拗に付き纏う、姿なき無数の叫び声は「過去」という名の亡霊たちか。

 心の中に散らばったガラクタを、全て吐き出したかった。

 忘却の淵に沈んでしまった大切な何かを、思い出したかった。

 思い出せるような気がした。

 孝一の足は軽々と梅吉を追い越すと『思い出焼きソバ』と書かれた赤い暖簾の前で止まり、そのまま仰向けに倒れ込んだ。

 大きく肩で息をしながら天を仰げば、幾重にも垂れ下がった、枝いっぱいに咲き誇る花々が孝一を見下ろしていた。

「こんなに小っちゃかったっけかなぁ、梅ちゃんの店って」

 八坪ほどの小さな古びた店。それにも増して、ちっぽけな己の存在。

 いっそのこと春宵の花影に紛れ、このまま、そっと消えてしまえたらいいのに。

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