第一章 なごり雪 五
「今日は気分がいいでぇ。久しぶりに一杯やりてぇ気分だいなぁ。ちょっと待ってなぃ、ビール切らしててさぁ。ちょっくら行って買ってくらぁ」
梅吉は鼻歌まじりに、そそくさと裏口から出ていってしまった。
主をなくした店内は、もぬけの殻となり、シンと静まり返った。
そういえば、早稲田大学野球部への推薦が決まったとき、嬉しさのあまりカウンターテーブルの下に刻み込んだ落書きは、残っているだろうか。
孝一は、しゃがみ込んでテーブルの裏側を覗いてみた。
「あった!」
コンパスの針で彫り込んだ、相変わらず下手くそな文字に、思わず苦笑した。
【プロ野球選手になって、故郷に錦を飾る‼︎
巨人の守護神と言われる男になってやる】
時の流れと共に色褪せて行った決意。
思えば立ち止まることもせず、ただひたすら全速力で駆け抜けた青春の日々。様々な矛盾を抱えながらも、描いていた未来予想図は、夢と希望に煌めいていた。
怖いものなど何もなかった。全てが上手くいくはずだった。それがどうしたことか。
遠い日に自分自身と交わした約束は、何一つ果たせないままだった。
「目立たぬ場所に書いて正解だったな」
苦笑いしながら立ち上がろうとしたとき、少し離れて、もう一つの落書きが目に止まった。
「馬鹿野郎が。俺と同じことやってらぁ」
興味津々で目を凝らして見る。やはり鋭利な物で書き記したのだろう。かなりしっかりと彫り込まれていた。
極端に右上がりの角張った癖文字には見覚えがあった。
【俺を馬鹿にした奴らを見返してやる‼︎ アイツには絶対に負けねぇ‼︎ by 武尊】
粗削りな言葉を指先でなぞりながら「アイツって……誰だよ」と呟く。
確かに、武尊は妾の子として生まれ、間もなく母親は失踪。父親も引き取りを拒否して、養護施設で幼少期を過ごした。にも拘らず、そんな暗い影を微塵も感じさせないほど、天真爛漫で元気な子だった。
しかし、ひとたび厄介ないざこざが起こると、武尊に責任を擦りつける輩も少なからずいたことは確かだった。ただ「普通の家の子ではない」という理由だけで。
こんな、事件があった。
六年生になったばかりの放課後の教室で、孝一は敬三に買ってもらった新しいグローブに手を差し入れ、あらゆる角度から飽きずに眺めていた。
興味津々に周りを取り囲むクラスメイトたち。武尊から見せて欲しいとせがまれて、いけないと知りつつも、内緒で持ってきてしまった。
新品の革グローブが放つ、独特の癖のある匂いが鼻をつく。
「すげぇな、孝一。いいなぁ、俺も一度でいいから新しいグローブ使ってみてぇ」
いつもチームメイトが譲ってくれる、お下がりしか使ったことのない武尊にとって、それは残酷な仕打ちだったに違いない。
ふと、見せた寂しそうな顔を今でも鮮明に覚えている。
下校のチャイムが鳴り響き、見回りの先生の足音が近づいてくる。慌てた孝一は、あろうことか、大事なグローブを机の上に置いたまま、教室を飛び出していった。
校門を出て少し歩いて気づき、慌てて元来た道を引き返す途中、一緒に教室を出たはずの武尊とすれ違った。
下を向いたまま黙々と歩く姿は、声を掛けるのも憚られるほどだった。
らしからぬ姿に首を傾げながらも、大して気に留めることなく通り過ぎた。
息を切らし、やっとのことでたどり着いた薄暗い教室。しかし、机の上にあるべき筈の物は見当たらなかった。
翌日、校門脇の生垣の中から、あちこち無残に切り裂かれた、例のグローブが見つかった。さぁ、誰がやったのか。たちまち怪しげな話に発展して、犯人探しが始まった。
裕福ではあったが、少々問題児だった悪ガキの一人が、真っ先に武尊を疑ってかかった。
「ててなし子は手癖が悪いって、うちの父ちゃんが言ってたぞ! 武尊に決まってらぁ、羨ましそうに見てたもんな。孝一のグローブ‼︎」
教室内は騒めき、様々な憶測が飛び交った。包帯の巻かれた武尊の左手に気づいた真琴が、こっそり「どうしたの? その手」と尋ねた。
「これは、その…… カッターで鉛筆を削ってて、うっかり切っちまったんだ」
もじもじとシャツの裾を弄る武尊の仕草に、動揺の色が見て取れた。
騒ぎを聞きつけた担任教師が、緊急のホームルームを開く。しかし、肝心の教師が騒動を収めようと放った言葉は、とうてい信じ難い「武尊、正直に言ってみろ」だった。
再び教室内がどよめいた。沢山の鋭いナイフの如き視線が武尊をメッタ刺しにする。
「なんだよ、それ! 俺はやってねぇ‼︎ 畜生、みんな馬鹿にしやがって。忘れねぇぞ! 俺は今日のこと、ぜってぇ忘れねぇ‼︎」
武尊の全身から噴き出した恨みの血飛沫が、居合わせた全ての者たちに降り掛かった。
「先生、ひどい。みんなひどいよ。武尊はそんなことしない‼︎」
涙に濡れた目を見開き、固く握りしめた拳を震わせながら真琴が訴えた。
武尊は一瞬、驚いた目で真琴を見ると、そのまま教室から飛び出していった。
「それ見ろ! やっぱりアイツがやったんだ! だから逃げ出したんだでぇ」
気まずい雰囲気のなか、悪びれる風もなく言ってのける悪ガキの前に、孝一は仁王立ちなった。
震える拳は孝一も同じだった。怒りに任せ、思いきり殴りかかる。
派手な音を立てて悪ガキが倒れ込む。その上に跨がり「もう一発は武尊の分だ‼︎」と、止めの一発をお見舞いした。
「痛ぇ! 前歯が折れたでぇ。畜生!父ちゃんに言いつけてやる! 覚えてろよ‼︎」
「うるせぇ‼︎ 前歯の一本くらいなんつうこたぁねぇや! 武尊のほうがもっと痛かったんだ‼︎ 今度また言ってみろ、前歯一本じゃすまねぇぞ」
割って入った教師を物凄い形相で睨みつけると、孝一も教室を飛び出した。
案の定、事の次第を聞きつけた悪ガキの父親が、孝一の家に乗り込んできた。
ただひたすら頭を下げる両親からは、手ひどく説教されたが、祖父の敬三と梅吉だけは
「よくやった! それでこそ、義理人情に厚い上州男だでぇ」と、褒めてくれたっけ。
「なぁ、武尊。お前は今、何処で何をしてるんだよ」
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