終章



 嫌悪が浮かぶのを見てしまった。

 決して人を拒絶などしなかった、きみの目に。




 


 今まで生きてきて、こんなにも悲痛な声を聞いたことはないと思う。

 壊れたテープレコーダーのように、繰り返しみなの名前だけを呼ぶ彼の声を心地良く聴きながら、閉めた風呂場の扉にガムテープを貼っていく。中に充満する毒が、逃げないように。高揚する気分にまかせて、唇をつり上げた。今にも喉が震えて、笑い声が漏れそうだ。

 この世で縋る相手はもうみなしかいないように、直紀は何度も何度もみなの名前を呼んでいる。やめてくれ、だとか、頼むから、だとか、そんな言葉も合間に混じった。それは本当に鬼気迫る声で、彼が心の底からみなを求めているという事実に、目眩がした。


 そっと耳を冷たい扉に当てた。目を閉じる。だんだんと悲鳴のように聞こえてきた彼の声だけに意識を向ける。

 みな。

 直紀の唇で形作られるみなの名前は、他のどんな言葉よりも甘く染みこんでいく。それが切羽詰まったものであればあるほど、満足した。ああ、もうあの唇は、みなの名前しか紡がないのだ。そう思ったとき、堪えきれず喉からは笑いが溢れた。目眩がする。


 直紀は優しい。それはまるで、どんなに醜く汚れた人間であろうと彼なら受け入れてくれる、と漠然とそんなことすら思わせる優しさだった。きっと、間違ってはいないのだろう。そんな彼が、はっきりとみなへの嫌悪を向けたときには、一瞬体の奥から凍るような冷たさが巡った。

 けれど、もういいのだ、とすぐに思い直す。直紀はすべて忘れる。みなへの嫌悪も恐怖も、家族のことも友達のことも、全部。直紀が今まで見てきた世界は消えて、そうしてそのあとは、みなが直紀の世界に存在するただ一人になる。



 部屋に戻り、無造作にテーブルに置かれた写真を手に取る。直紀が見つけてきた、みなとお母さんが写る古い写真。あれほど渇望した彼女のことも、今となっては取るに足りないものに思えた。

 彼女以上に欲しいものが、愛しいものが見つかった。そしてそれを、手に入れた。

 ぐしゃりと手の中の写真を握りしめる。そうして部屋の隅に置かれたゴミ箱に放った。


 気づけば、騒々しい雨音が鼓膜を叩いていた。カーテンを引いてみると、景色がよく見えないほどの土砂降りになっていた。

 少しして気づいた。雨音が耳についたのは、それまで部屋に響いていた直紀の声が消えたからだ。みなが開ける気はないことを悟って諦めたのか、それとも、もう意識がないのか。

 物音がするかどうか確認しに風呂場へ戻ろうとしたときだった。テーブルの上で携帯電話が震えた。開けてみると、駿からの着信だった。随分と久しぶりに見たような気のする名前だった。


「はーい、もしもーし」

『みな』

 電話の向こうの駿の声は、こちらの明るさを打ち消すほどの重たさで耳に響いた。

『直紀いるんだろ。代われよ』

 有無を言わせぬ低い声が聞こえた。それでもそれは駿の声だ。みなはいつものように、軽い口調で言葉を返せる、はずだった。

 ざわりと嫌な感触が這い上がる。理由はわからなかった。

「んー、いるけど、ちょっと今は代われないなー」

『いいから代われ』

 同じ調子で、駿が短く繰り返す。携帯が、いやに冷たく感じた。嫌な予感を振り払うように、一つ息を吸い込んで、できるだけ明るい声で返す。今度はみなが駿の声の重たさを打ち消すように。

「残念だけどねえ、代わっても、直紀はもう駿のことわかんないよ。もう、直紀の中の駿は消えちゃったもん」

 電話の向こうが静まりかえる。その間に、続けた。

「ねえ駿、みなね、本当はみな一人だけがよかったんだけど、でも駿だけは許してあげる。だってみなたち、家族だもんね。みな、直紀の記憶を壊して新しく書き換えるんだよ。直紀はこれからも、ずうっとみなの家にいるの。もう、みな以外は直紀の記憶に刻まれないように。だけどね、駿。駿ならいいよ、会いに来ても」

 駿は何も言わない。

「この先直紀の記憶に残る人間は、みなと駿だけにするの。ね、すごいでしょ? 駿もそうなったらいいなって思ってたでしょ? みな、わかってるよ。みなたちって似てるもん。駿だって直紀のこと好きでしょ? ね?」

 語尾は、意図せず縋るような色を帯びていた。冷たさが、じわじわと指先から広がっていく。初めてだった。駿の表情がわからなかった。雨音がうるさい。

「みなね、本当に本当に直紀のこと愛してるんだよ。だから、もう誰にも見せたくないんだもん。こうすれば、直紀は本当に、みなのものになるでしょ?」

『……みな』

 ようやく返ってきた声は、見知らぬものだった。まるで諭すかのような、優しさすら含んで響いた駿の声に、ぞっとするほどの冷たさが這い上がる。急速に、駿が遠くなっていくのを感じた。

 駿が言葉を続けようとするのがわかった。聞きたくないと思った。彼の言葉をどうにかして止めようとした。けれど、喉は凍ったようにまったく動かなかった。

『お前、そんなの愛って言わねえだろ』

 一瞬、視界が揺れた。騒々しい雨音の中でも、その声ははっきりと耳に響いた。携帯を握りしめる手に力をこめる。

『そういうのってさあ、物に対する考え方じゃん。お前は、あいつを人間として見てねえんだよ』


 気づいたときには、右腕を振り上げていた。掌から伝わる恐ろしいほどの冷たさを出来るだけ遠ざけるように、携帯を部屋の隅へ投げる。床にぶつかった携帯は固い音をたてて一度跳ね上がり、転がって今度はクローゼットの戸にぶつかった。

 一瞬真っ白になった頭に、数秒の後、駿へぶつけたい言葉が一挙に押し寄せた。けれどもう、携帯を拾う気にはなれなかった。ひどく息苦しかった。

 足下に忍び寄った圧倒的な孤独感がすぐに足首を掴んで、あっという間に全身を飲み込む。同時に、みなは駆け出していた。

 直紀の髪が見たかった。少しだけ茶色い、少しだけ、みなと似た色の髪。

 何かが崩れ落ちるのを感じた。掌にあったすべてが、指の隙間から一つ残らずこぼれ落ちていく。それを止めようと、夢中で風呂場の扉に触れる。


 大嫌いだったこの髪の色が、あの日以来、少しずつ素敵な色に見えるようになった。直紀が、綺麗だと言ってくれた。優しく笑った彼の髪は、少しみなと似ていた。好きだと思った。

 冷たい孤独を振り払うように、隙間を塞ぐガムテープに爪を引っかける。一気に剥がそうとしたら、途中で破けてしまった。ふたたびガムテープに伸ばした指先が、震えているのに気づいた。何が恐いのかわからなかった。なのに、焦りはガムテープを剥がすという単純な作業すら困難なほど膨らんでいた。雨音だけが耳を塞いでいる。ただ、直紀に会いたかった。ほんの一枚の扉を隔てた先にいるはずの彼が、途方もなく遠く感じた。それは、直紀だけではなかった。何もかもがひどく遠かった。駿ももう、みなの傍にはいなかった。

 雨音の中、みなはどうしようもなく、ひとりぼっちだった。

 

 直紀の目が、みなだけを見ればいいと思った。直紀の耳が、みなの声だけを聞けばいい。直紀の声が、みなの名前だけを呼べばいい。直紀の手が、みなにだけ触れればいい。それだけで、いい。そう思ったのだ。


 最後のガムテープが剥がれたとき、息苦しさは頂点に達していた。突き飛ばすようにして、目の前の扉を開ける。つんとする匂いが鼻腔を刺した。

 彼に今すぐ触れたかった。なのに、釘付けにされたかのようにそこから動けなかった。一歩も、動けなかった。


 直紀も駿も違うって言うのなら、それでもいい。みなは直紀のことを、愛してなんかいなかった。

 でも好きなのは本当だった。大事なのは本当だった。欲しかった。どうしようもなく、直紀のことが。それでいいんだ。


 直紀は顔を上げなかった。腕を動かせば鳴る金属音も、聞こえることはなかった。力をなくした肩も爪先も、ぴくりとも動かなかった。

 すべてが崩れてしまったあとには、恐怖も焦燥も消えて、じわりと高揚が戻ってきた。しかしそれは、冷たさを引きずった、重たい高揚だった。ふと頬をかすかな感触が撫でた。手を当ててみる。少しだけ、濡れた感触があった。それはあまりに久しぶりのことで、一瞬何なのかわからなかった。

 直紀の目も、耳も、手も、足も、髪も、全部全部、もう、みなだけのもの。

 笑おうとした。けれど、どうすればいいのかわからないように、頬は微かに震えただけだった。

 遠くで、チャイムが鳴る。それは数回続いて途切れた。代わって、ドアを叩く低い音が聞こえてきた。合間に駿の声もしたような気がする。しかしそれらはすべて、すぐに絶え間なく窓を叩く雨音にかき消されて、わからなくなった。何もかも、わからなくなった。

 一歩、彼のもとへ歩み寄る。また、頬を雫が伝うのを感じた。少しだけ茶色い、彼の髪に手を伸ばす。綺麗な色だと、みなにそう言った彼の笑顔が目の前で項垂れる彼に重なろうとして、消えた。



 気が狂いそうなほど、悲しくて、苦しくて、しあわせだと思った。









第二章「雨音」完

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