第50話 痣

 三十代前半の能勢孝明のせたかあきさんに聞いた話だ。


 ほとんど眠っているが、ほんのわずかに意識がある。あと数分なにもなければ、眠りに落ちていただろう。そんなうつろで心地いいときだった。


 なにかに足首を掴まれてズルッと下に引っ張られた。


 能勢さんはハッと目を覚まして、ベッドの上で飛び起きた。足もとに目をやって呟く。


「今のは……」


 夜も更けた真っ暗なこの部屋に他者がいるはずない。だが、足を引っ張られたという感覚は気のせいではなかったらしい。眠った位置から身体が少し下にずれている。おかげで足首から先がベッドの外にはみ出ていた。


「やっぱり、なにかあったか……」


 一泊二日の出張のために予約したビシネスホテルだった。部屋の広さは五畳ほどだと思われ、その狭さのせいか、シングルベッドがやたらと大きく感じられる。安っぽいバスローブのようなルームウェアに、必要最低限のものだけが揃ったアメニティ。まさに寝るためだけに予約したようなホテルだった。


 ホテルには午後五時を少し過ぎた頃にチェックインしたが、霊感体質の能勢さんはその時点で妙な気配を感じていた。


(なにかあるかもしれないな……)


 その予感は的中して、やはりなにかあった。霊とおぼしきものに足をズルッと引っ張られた。


「しかし、なにがしたかったんだ……」


 足首に触れてみると軽い痛みがあった。


 体質のせいでよく霊に遭遇するが、彼らの行動は意味不明なことも多い。今のもそうだ。なぜ、足を引っ張る必要だあったのだろうか。複雑な事情があるようにも思えるし、もっと単純な理由――たとえば単なる悪戯のようにも思える。


 能勢さんは身体の位置を上に戻して、仰向けにゴロンと寝転んだ。


 おそらく、このままもう一度眠っても、また足を引っ張られるだろう。今までの経験からして怪現象は何度も続く。今夜はゆっくり眠れないかもしれない。こういったことにはもう慣れたとはいえ、足を引っ張られるとさすがに目が覚める。


 明日はいくつかの取引先に顔をだして、重要な商談にも挑まなければならない。寝不足で頭がぼんやりというのは避けたいところだが、やはり熟睡は期待できないだろう。怪現象というのは甚だ迷惑なものだ。


 そうこうしているうちにうつらうつらとしてきた。しかし、眠りに落ちるところまでは至らない。どこか寝苦しいのだ。さっきまではなかった寝苦しさに苛まれて、眠っているような眠っていないような、そんなどっちつかずの状態が継続していた。


 そんなときだった。やはりきた。なにかに足首を掴まれてズルッと下に引っ張られた。


 能勢さんは中途半端な眠りから目を覚ました。だが、今回は予想していたことでもある。一回目のように驚いて飛び起きるようなことはなかった。


 しかし、イラっとはした。


(明日は大事な商談があるんだぞ。ほんと迷惑だな……)


 下にずれた身体をもとに戻して目を閉じる。どうせ、また引っ張られるだろうが。


 ところが、意外にもそれ以降はなにも起こらなかった。足を引っ張られる怪現象は二回で済んだ。しかし、例の寝苦しさは継続した。そのせいで薄らと意識のある状態が一晩中続き、生殺しのような睡眠しかとれなかった。目覚まし時計が鳴ったときの起き心地は最悪だった。


「ああ……」掠れた声が出た。「なんか寝苦しさのせいで疲れたな……」


 怪現象が起きる部屋だ。寝苦しもその影響だったのだろうか。


 ベッドの上で億劫に上半身を起こした能勢さんは、なにげに足もとに目をやってギョッとした。


「うわ……マジか……」


 足首に赤黒い痣ができていた。


 五つの細長い痣は見れば見るほど指の形だ。足首を掴まれてズルッと下に――昨晩のあの出来事と無関係ではないだろう。


 そういえば、夜中に目が覚めたとき、足首に触れると痛みがあった。電気を消していてよくわからなかったが、その時点で痣ができていたのかもしれない。

 

 痣だけならいいのだが……


 今日はいくつかの取引先に顔をだす必要がある。足に痛みがある状態で歩きまわるのはきつい。しかし、ベッドからおりて立ちあがってみると、痣はあっても特に痛みはなかった。念のためにその場で足踏みをしてみても平気だった。


「よかった。大丈夫っぽいな……」


 ホッとして呟いたあと、立ったついでに洗面に向う。


 洗面台はユニットバスに併設されている。顔を洗おうと鏡の前に立った能勢さんは再びギョッとした。


「嘘だろ……」


 鏡に寝不足然とした自分の顔が映っている。その首に赤黒い痣ができていたのだ。足首に残っていたものと同様に、五つの細長い痣だった。


 能勢さんは鏡を覗きこんで痣に目を凝らした。


「これも指の跡だよな……」


 昨日は一晩中寝苦しさを感じていた。もしかして、あれは寝苦しさではなく息苦しさだったのだろうか。つまり――


 一晩中、首を絞められていた?


 霊の行動は意味不明なことも多いが、首を絞めてくるなんて尋常ではない。この部屋にいるものはたぶんヤバいものだ。身の危険を感じた能勢さんは急いで身支度を整えると、フロントに連絡を入れて早々にホテルをチェックアウトした。


 それから三日もすると足の痣は目立たなくなった。しかし、首の痣は二週間近くも残っていた。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る