第48話 遊歩道

 二十代後半の佐々木梨絵ささきりえさんに聞いた話だ。


「私、よく旅行にいくんです。特にひとり旅が好きでなんですよね。みんなといく旅行も普通に楽しいんですけど、気ままなひとり旅のほうが性に合っているみたいです」


 佐々木さんはそう言って話をはじめた。


 その日もゴールデンウィーク休暇を利用してひとり旅に出ていたそうだ。予約したホテルはリニューアルオープンしたばかりのところで、どの部屋からも青い海がのぞめるというのがウリになっていた。


 観光地をいくつかのかまわったあとだったため、そのホテルにチェックインしたのは午後五時過ぎだった。ベルスタッフに荷物を運んでもらって部屋に入ると、窓の外にオーシャンビューのパノラマが広がっていた。


「海が見えるのはやっぱりいいなあ……」


 佐々木さんのひとりごとに、ベルスタッフが反応した。


「ありがとうございます。この眺望はホテルの自慢です」


 夕食はホテル内のレストランに連絡を入れて午後七時からと伝えた。それまで少し時間があることもあって、佐々木さんはホテルの周辺を散策することにした。旅行にいくとよくホテルのまわりを散策するのだという。知らない土地だと、ふらふら歩くだけでも楽しい。


 ホテルを出るとかすかに波の音が聞こえた。そちらに歩を向けてみるとやはり海に出たが、人工的なビーチが広がっているような海ではなかった。


 黒っぽい岩がごろごろしていた。おそらく、地磯じいそっていうものだ。そこに遊歩道が設けられていた。


 土を踏み固めただけのような遊歩道の入口付近には、なぜかサビだらけの鎖と白いプレートが落ちていた。佐々木さんはそれにチラリと目をやったものの、特に気に止めることもなく歩を進めた。


 遊歩道は海のすぐ横にあるうえ、海面との段差がほんのわずかしかなかった。強い波が磯にあたって砕けると、霧のような水しぶきが顔にかかる。だが、決して荒々しい印象のある海ではなく、むしろ穏やかと言っていい海だった。


 蛇行する遊歩道を気の赴くままにのろのろ進んだ。人の姿が見あたらず、のんびりと散歩ができた。


 やがて行く手に少し開けた場所が見えてきた。古びたベンチがひとつ据えられており、ささやかな展望台といった風情がある。展望台のすぐ前も美しい海だったが、これまで以上に波が穏やかだ。海を見おろせば磯が少しはいりこんでいた。


「きれい……」


 天気が良かったというのもあって、そこから見事な夕日が見えた。あんなに真っ赤な夕日は、ほかではなかなか見れない。


 佐々木さんは展望台の手すりのところに足を留めて、しばらく赤く揺らめく夕日を見つめていた。すると、突然はっきりと感じたのだという。


 海に引きずりこまれる!


 全身に悪寒が走った。佐々木さんは反射的に後ろへ飛び退いた。なぜか、たくさん手が海から伸びてきたような気がしたのだ。


 その無数の手は佐々木さんを捕まえると、海の中にいっきに引きずりこもうとした。そんな悪意や殺気を感じた。


 もちろん、実際に海から手など出てきていない。だが、そのときははっきりとそう感じた。


「今のなに……?」


 佐々木さんはしばらく展望台で呆然と立ち尽くしていた。だが、あたり一帯の薄暗さに気づいてふと我に返った。いつの間にか夕日が半分落ちていたのだ。急に怖くなってきた佐々木さんは、人けのない遊歩道を慌てて引き返し、逃げるようにしてホテルに戻った。


 部屋のベッドに腰かけると、展望台での恐怖がよみがえった。海に引きずりこまれる! 腕に鳥肌が立ち、首筋に冷や汗が流れた。


 だが、その怖さも夕食がはじまるといっきに吹き飛んだそうだ。海の幸をふんだんに使ったコースはどの料理も非の打ちどころがなく、特に自家製ダレを使っているという初鰹のタタキは絶品だった。美味しい料理というのは気持ちをリセットしてくれるらしく、展望台で感じたことは気のせいだと思うようになっていた。海から手が出てきて引きずりこむなんて馬鹿馬鹿しい妄想だ。


 大満足の夕食を終えて部屋に戻った佐々木さんは、スーツケーツから旅行雑誌を取り出して目を通した。明日足を運ぼうと思っている観光地への交通手段を予習しておくためだ。旅行は時間が限られている。行程を間違えるなどして時間をロスするのは避けたい。


 そうこうしているうちに午後十時過ぎになった。佐々木さんは財布だけを持って再び部屋を出たそうだ。


「ホテルの二階に深夜二時まで営業しているバーがあったんです。お酒も旅行の楽しみのひとつですからね、美味しい夕食でお腹がいっぱいでも、飲まないというわけにはいきません。ダイエットは気になるところですけど……」


 マスターバーテンダーは四十代前半とおぼしき痩身の女性だった。佐々木さんはカウンター席に腰をおろして、オススメだというカクテルをオーダーした。ややして真っ白なカクテルが目の前に差しだされた。そのグラスにはパイナップルが可愛く盛りつけてあり、ピニャ・コラーダというカクテルをアレンジしたものらしかった。


 バーテンダーの女性は上品な口調であっても、澄ました感じではなく話し上手な人だった。佐々木さんもお酒が入って饒舌になっていた。おかげで会話が途切れず、楽しい時間が流れた。


 三杯目のカクテルをちょうど飲み終えたときだった。ふと佐々木さんはすっかり忘れていたことを思いだした。夕方にふらふらと散歩をした遊歩道での出来事だ。海に引きずりこまれる。得体の知れない恐怖を感じて、逃げるようにしてホテルに戻った。


 それを女性に話してみると、表情を強張らせて呟いたという。


「ああ、あの遊歩道にある展望台……」


 なにか知っている感じのようすだった。


 佐々木さんは展望台で覚えた恐怖を完全に忘れたわけではなかった。しかし、ここは展望台ではなく安全なホテルの中だ。恐怖よりも好奇心がまさった。怖いもの見たさというやつだ。遊歩道について教えてもらえないかと女性に頼んでみた。


 女性の話によると、遊歩道は一年ほど前から立入禁止になっているそうだ。ある事故が繰り返し起きたための措置だった。しかし、入口に立入禁止のプレートをつけた鎖を張っても、なぜかすぐに切れて落ちてしまうのだという。金属製の鎖はそう簡単に切れる代物ではないはずだが、何度張り直してもいつの間にか切れているとのことだった。


 佐々木さんには遊歩道の入口で鎖と白いプレートを見た記憶があった。おそらく、それのことだろう。


 また、立入禁止の原因になったある事故というのは、遊歩道に設けられた展望台からの転落事故だった。佐々木さんが夕日を見ていたあの展望台だ。


 女性はこう事故についてこう説明した。


「半年のあいだにおふたりの方があの展望台から落ちたんです。それが原因で立入禁止になりました」


 さらに、全面立入禁止の措置が取られてからも、ふたりがあの展望台から落ちたのだという。つまり、今のところ死者は出ていないものの、合計四人もの人が海に落ちたことになる。その四人の性別や年齢はばらばららしいが、ひとつだけ共通している部分があった。四人全員が揃ってこう証言しているのだ。


 突然、海の中に引きずりこまれた。


 転落した四人のうち三人はホテルに宿泊していた旅行者だった。だが、残りのひとりは目の前にいるバーテンダーの女性だった。遊歩道の仔細をいろいろ教えてくれた彼女も、過去にあの展望台から海に落ちていた。


 女性は四杯目のカクテルを作り終えると、それを佐々木さんに差しだしつつ言った。


「私もはっきりと感じました。なにかがいっせいに海の中から伸びてきたんです。見えはしませんでしたが、あれは手だったと思います。何本もの手が私を海に引きずりこんだんです。誰も信じてはくれませんが……」


 佐々木さんは今も旅行を趣味にしているそうだ。しかし、海のあるところには行かないようにしているらしい。波の音を聞くたびに悪寒が走るからだ。


 海の中に引きずりこまれる。どうしてもあのときの感覚を思いだしてしまうのだという。





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