162日間
二時間目が終わって、休み時間になった。
幸い……と言っていいのかわからないけど、光里の周りに誰かが近寄る様子はなかった。
光里はなにかを考えこむように、じっとうつむいている。
俺は駆け寄ると、声をかけた。
「光里! 久しぶり!」
反応はすぐには返ってこなかった。少しの間が空いてから、光里は顔をあげた。
そして、澄んだ瞳でまっすぐに俺を見あげる。
「……お久しぶりです」
「う、うん、久しぶり……」
あ、あれ? なんか素っ気ない反応……。
クラスのみんなは光里個人よりも俺たちの関係に興味があるのか、ちらちらと視線が注がれているのを感じる。
だから光里も話しづらかったのかもしれない。
「光里、ちょっと廊下に出よう」
「……はい」
光里は素直にうなずいて立ちあがった。
光里が話しづらいだろうというのもあるが、せっかくなら二人きりで話したい。
光里と一緒に廊下に出ると、俺は「盗み聞きするなよ!」と言って戸を閉めた。
そのまま窓際まで寄って、俺たちは向かい合った。
「…………」
光里は俺のほうを見ずに、押し黙っている。
――俺は光里に、ずっと伝えたかったことがある。
いつか再会したとき、真っ先に言いたいと思っていた言葉がある。
俺はじっと光里を見つめ、その言葉を口にした。
「好きだ、光里」
光里の目が見開かれ――揺らぐのを見た。
俺はこの一言を、ずっと言えていなかった。
あの日、「結婚してください」と言われて、恋心を自覚してからの俺は――
それまでは普通にできていたことが、できなくなってしまった。
ふざけて手を繋ぐことも、時には目を見ることさえも、無性に恥ずかしくて。
そんな当時の俺に、大人みたいに愛を囁くなんて芸当が、できるわけもなかった。
光里は照れながらも、毎日のように好きだと言ってくれていたのに。
そうこうしているうちに秋になって、光里はこの街を離れた。俺の気持ちは充分に伝わっていたと思うけど、言葉はきっと足りなかった。そのことを、いまだに時々思い出しては後悔していた。
――けれど、今はあのころとは違う。八年経って、俺もそれなりに大人になった。
「光里……愛してる」
だからこんな、少し背伸びした台詞だって言える。
八年分の想いがこもった俺の言葉に、光里は――
「そうですか」
「えっ!?」
なにその淡白な反応!?
「ちょっと反応薄くない!?」
「水科くんのテンションが高すぎるだけです」
「えっ!? なにその他人行儀な呼び方!? ホームルームのときは『ゆうくん』って呼んでくれたよね!? しかもさっきからなぜ敬語!?」
「もうそんな呼び方をするような歳でもないでしょう。敬語はただの癖なので気にしないでください」
……そんなぁ。
光里との距離が、一気に開いた気がした。これまで離れていた距離よりも、ずっと。
思えば。
さっきから舞いあがっているのは俺だけで、光里はずっと至って冷静に見える。
――光里が、俺への気持ちを失っている可能性。
その可能性に、俺は今、はじめて思い至った。
普通に考えれば、当然ありうる。というか、客観的に見ればむしろ、そうなるのが自然なんだろう。子どものころにした結婚の約束を今でも信じているなんて、他人が聞けば、馬鹿げた話だと鼻で笑われるようなことなのかもしれない。
どうして今の今までその可能性に思い至らなかったのか、自分でも不思議なくらいだ。
だけど今、俺ははじめて不安を――恐怖を覚えている。
想いは充分に伝わっていたなんて、思い上がりだったのかもしれない。
もしかして、光里はもう俺のことなんて、とっくに……。
「光里……俺たちさ、昔約束したよな。大人になったら、絶対に結婚しようって」
すがりつくような気持ちで、俺は言う。
「……忘れました」
いちばん聞きたくなかった言葉に、目の前が真っ暗になる。
別れのとき、光里は俺に連絡先を教えたがらなかった。
だから俺は、いつの日か、光里のほうから会いに来てくれるのだと信じて疑わなかった。
そして実際に、あれから八年が経った今――再会できたのは偶然かもしれないけど、光里はこの街にちゃんと戻ってきてくれた。
それなのに……。
「あの……勘違いしないでください。忘れたというのは、言葉の綾です」
俺がよっぽど落ちこんだ顔をしていたのか、光里は気遣わしげな声で言った。
「わたしはただ、そんな子どものころの約束は無効だって言ってるんです」
「なんだ……そっか。それなら……」
いや、よくはない。全然よくはないけど……でも、きれいさっぱり忘れられてしまっているよりは、全然マシだ。
「……あの日々のことを忘れたことなんてありません。水科くんのことは、今でも大切な友人だと思っています」
「光里……俺もだよ。光里と過ごした半年間は、俺にとってもかけがえのない宝物だ」
「でも、それとこれとは話が別です」
「えっと、つまり……結婚はなし?」
光里はうなずいた。そんな。
「あんなの、子どもの約束ですから。それにわたし、今の水科くんのことをなにも知りません。八年も経っていれば、人は変わるものです」
「そっか……」
……悲しいけど、光里の言うことも一理ある。
「……それと、半年間じゃないです」
「え?」
半年間じゃない?
光里が転校してきてから、また転校していくまでの期間は、確か半年くらいだったはずだ。まさか、俺の記憶違い……?
「わたしと水科くんが過ごした期間は……正確には、五か月と九日です。もっと正確に言うと、五月一日から十月九日までの、162日間です」
「…………」
「…………」
「……くっ、ふふふっ」
「な、なにがおかしいんですかっ。こんなに正確に覚えてるなんて気持ち悪いって言うんですか」
「いや、そうじゃなくて」
やっぱり、光里なんだ――そう思った。
目の前にいる女の子は、俺の知ってる光里なんだ。162日間の思い出を共有している、俺がはじめて、そして唯一恋をした女の子なんだ。
だったら――もう、迷うことなんかなにもない。
俺はまっすぐに光里の目を見つめた。
「な、なんですか」
「改めて言うよ。光里、俺と結婚してほしい」
「……その」
光里は一度目を伏せてから、もう一度俺を見た。
俺の覚悟を確かめるかのような、真剣な眼差しだった。
「…………ごめんなさい」
「わかった、今はそれでいい。その代わり、これから見極めてほしんだ」
「……どういう意味ですか」
「今の俺が結婚相手としてふさわしいかどうか、これから一緒に過ごす中で、見極めてほしい」
「…………」
「それで見極めたあとのことだけど……籍を入れるのは早ければ高校卒業したくらいのタイミングかな? まぁ別に急ぐ必要はないから、そこは二人で相談しよう。あんまり高いのは難しいけど、もちろん婚約指輪も買うよ。それで、できれば同じ大学に通って、バイトもしながら部屋を借りて同棲して……あ、式を挙げるのは貯金に余裕ができてからでもいいかな?」
「結婚する前提で話を進めすぎですっ。見極めた結果、わたしが断るという可能性は考えないんですか」
「え? いやでも、光里は絶対に俺のこと大好きだと思うんだよね。一緒にいたらすぐにそれを思い出すよ」
「なんなんですかその自信は。自分で言ってて恥ずかしくないんですか」
「いや、別に?」
もう開き直った。
光里は絶対に俺のことを好きに違いない。今は一時的にその気持ちを思い出せないだけだ。
「……今朝だってそうです。あんな……みんなの前で、約束のことっ」
「いや、あれはダークネス……うちの担任の誘導尋問だって! 俺も言うつもりは全然なかったんだよ。……光里的には、黙ってたほうがよかった?」
「……別に、わたしは構いませんけど。ただ、」
「ただ?」
「水科くんが後悔するかもしれませんよ。わたしのことが好きだなんて宣言したこと」
「そんなことは――」
「だって!」
ありえない、と言おうとして、光里に遮られる。
「……わたしも、人のことは言えませんから。この八年のあいだに、わたしも変わりました。あなたのよく知っている、あなたが好きだった灰谷光里という女の子は、もうどこにもいないのかもしれません」
「…………」
確かに、光里は変わったのかもしれない。雰囲気も、しゃべり方も、他人との接し方も昔とは違う。まだまだほかにも、俺の知らない一面があるのかもしれない。
だけど、そんなこと……
「だから――わたしに水科くんを見極めろと言うのなら。水科くんも、わたしのことを見極めてください。結婚を申し込む相手として、ふさわしいのかどうかを」
……そんな必要はないと言ったところで、光里は納得しないだろう。
「わかったよ」
俺は言った。
光里が結婚相手にふさわしくないなんてことは、天地がひっくり返ってもありえないけど。俺が光里の結婚相手としてふさわしいということは、なんとしても光里に示さなくちゃならない。
――絶対に、光里に俺と結婚したいと思わせる。俺は静かに、その決意を固めた。
「……では、そういうことなので」
「待った」
もう話すことはないとばかりに教室に戻ろうとする光里を、呼び止める。
「まだなにか」
「ひとつ、大事なことを言い忘れてた」
「なんですか」
なにはともあれ――また光里と会えて、本当によかった。
「おかえり、光里」
「……はい。ただいま…………ゆうくん」
「あっ、今!」
「い、今のは特別ですっ。今後は断固『水科くん』で統一しますから、そのつもりで!」
言って、光里はすたすたと教室に入っていく。
「そんなっ! あ、ちょっと待って光里っ、せっかくだしもうちょっと話そう!」
俺は慌てて、その背中を追いかけた。
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