マイナス700点

 三時間目の授業が終了した。

 俺は光里に結婚相手として認めてもらうため、なんらかの行動を起こさなくてはならない。だがそのためには、距離が足りないと思った。心の距離の前に、物理的な距離が。


 と、いうわけで。

 俺はさっそく光里の席のそばまで行って、声をかけた。


「なるみん、ちょっといい?」


 ――光里の、左隣の席に座る女子に。


「んー? どしたの、いいんちょ?」

「ちょっとこっち来てもらえる? 頼みたいことがあって」

「いいけど……?」


 なるみんが席を立つ。

 光里が訝しげな顔でじっと俺を見つめてくるけど、ひとまず気にしないことにする。


 なるみんと連れ立って教室の隅まで移動する。光里に聞かれて阻止でもされたら困るので、万全を期さないと。


「頼みって?」

「単刀直入に言うと、席を替わってほしい」

「……あ〜、なるほどね〜」

「パンでもジュースでも奢るから! お願い!」

「ダークネスにはいいんちょから伝えてくれるの?」

「そのへんは任せといて」

「ん、じゃあいいよー」

「軽い! ありがとう、恩に着る!」

「別にいいってば〜。で、いいんちょの席ってどこだっけ?」

「ほらあそこ、ノノさんの隣。自分で言うのもなんだけど、今朝の俺目立ってたでしょ?」

「あー! あそこか〜……って」

「ん? どうかした?」

「……あの席、山田くんの後ろだよ!?」

「そうだけど……え、なに、なるみんもしかして、まだ告ってなかったの?」

「そ、そんなの無理〜」

「なるみんも奥手だなぁ」

「……でも、これってチャンスだよね?」

「おう、頑張れ。応援してる」

「ありがと! いいんちょも、光里ちゃんと末永くお幸せにね!」


 そんなやり取りのあと、俺たちはさっそく荷物を移動させることにした。

 俺は一旦自分の席に戻ると、机の中の教科書類をすべて取り出す。


「え、なになに? 水科くん、早退でもするの?」


 隣の席の女子に声をかけられる。


「いや、引っ越し。なるみんと席を替わってもらうことにしたんだよ」

「……。あー、そういうことね」

「そういうわけだから、ノノさんとは今日でお別れだ」

「そっか……寂しくなるね……」

「微塵も思ってないくせに」

「あは、バレたか」


 なんて馬鹿な会話をしていると、なるみんが鞄を持ってこちらに向かって来ていた。

 俺も教科書類を両手に抱えて、光里の席へ向かった。


「よっ! 来たよ光里!」

「……いったいなんのつもりですか」


 それなりの量の荷物を机の上に置く俺を見て、光里は怪訝そうに眉をひそめる。


「席、替わってもらった」

「……別にそこまでしなくてもいいでしょう」

「するよ。結婚の件を抜きにしても、好きな人にはなるべくそばにいてほしいからさ」

「っ……!」


 光里が急に顔をそむけた。呆れられちゃったかなぁ?


「……不意打ちは、ずるいですっ」

「勝手に決めたのはごめん。……だめ?」

「……別に、勝手にしてください」

「やった!」


 安堵する。ひとまず、追い返されなくてよかった。


 そういえばこの窓際一列目の最後尾は、ダークネスがよく“主人公席”なんて呼んでる席だっけ、と座ってから思い出す。ダークネスは俺のことを主人公の器だなんて言うけど、俺は主人公なんて柄じゃないと思うんだけどなぁ。鈍感でもないし。


「ところで光里、俺のことはもう見極め終わった? 結婚する?」

「気が早すぎです。まだ一時間しか経ってないじゃないですか」

「でも真面目な話、今の俺がどの程度の評価なのかは把握しておきたいんだよね。光里から見て、現時点での俺って、点数でいうと何点くらい?」

「そうですね、だいたい……0点くらいでしょうか」

「低いっ! 低すぎる!」


 これは早急になんとかしなければ。席替えだけでは生ぬるい。


「よし、机をくっつけよう」

「はい?」

「机、くっつけよう」

「二回言われても……」

「ほら、教科書とかまだ揃ってないんじゃない? 机くっつければ見せてあげられるし」

「いえ、もう一式揃ってますけど」

「そう言わずに! ほら!」


 俺は机を動かして、光里の机とピッタリくっつけた。


「ちょっと、やめてくださいっ」

「まぁまぁ。ほら、小学生に戻ったみたいでよくない?」

「よくないですっ。周りを見てください、机くっつけてる人なんて誰もいませんっ」

「そういえば昔、一回だけあったよね、席が隣同士になったこと」

「話聞いてるんですかっ」

「あのときはあんなに喜んでくれたのになぁ……」


 毎月、月の初めに席替えがあって、そのときは確か九月だった。


 俺は学級委員だからと担任にくじ作成の手伝いをさせられて、俺と仲が良いからという理由でなぜか光里も一緒に手伝わされていた。

 それでなんだかんだで、二人ともくじを引くのが最後になった。


 光里と隣同士になって、当時は無邪気に喜んだものだけど、今思い返せば、あれは担任の粋な計らいだったんじゃないかと思う。


「……九月は実質、隣同士で過ごせる最後のチャンスだったんです。十月になったら引っ越しの準備とかで、それどころじゃなくなりますから。……だからあのときは、本当にうれしかったんです。夢みたいでした」


 感慨深げにそう語る光里を見ていると、俺も当時の感覚が蘇ってくる。

 間違いなく、俺も同じ気持ちだった。


「よし、じゃあこれからは、ずっと隣同士でいよう。進級してクラス替えしたらどうなるかわからないけど、ひとまず一年のうちは三月まで隣同士だ」

「……席替えはないんですか」

「あるけど、そのたびに光里の隣になったやつに頼んで替わってもらうから」

「毎回そんなことされるわたしの身にもなってください……普通に恥ずかしいですっ」

「もちろん毎回机もくっつけるよ」

「やめてくださいっ、それはホントにありえないですからっ」


 と、言いつつも……光里は机を離そうとはしなかった。

 指摘すると藪蛇になりそうだから、黙ってるけど。


「大丈夫、もし先生に見つかったとしても、教科書がないからって言い訳できるし」

「先生の心証は別に気にしてないです、それより現在進行形でみんな見てますからっ」


 ……ん? 言われてみれば、確かに視線を感じる。

 俺が教室を見回すと、遠巻きに見ていた連中が一斉に目を逸らした。

 ……そうだな、一言いっておくか。


「おーい、全員聞け! 特に男子! わかってると思うけど――光里は俺の嫁だからな! 友達として仲良くするぶんには許すが、下心は抱くなよ!」


 すぐに教室のあちこちから返事が返ってくる。


「うるせーよ! くたばれリア充!」

「二股野郎の分際で調子乗んな!」

「早く風見先輩に愛想尽かされろ!」


 打てば響くとはこのことだ。ただじゃれ合っているようなもので本気の罵倒ではないから、いちいち真に受ける必要もない。……たぶん。


「よしっ、これで一安心だな」

「もぉっ! いきなりなに言い出すんですかっ! 余計に注目浴びてるじゃないですかぁっ」


 よっぽど恥ずかしいのか、光里は机に突っ伏してしまった。

 そして、腕で顔を覆い隠したまま、こもった声で言う。


「もう今ので水科くんのことかなり嫌いになりました。マイナス200点です」

「そんなっ!」


 結婚が大幅に遠のいてしまった……。


「……ところで」


 顔を伏せたまま、光里がつぶやく。


「風見先輩というのは、最初の休み時間に来ていた人のことですよね。あの水科くんに公開告白してた」


 しまった! がっつり見られてた!

 ……そりゃそうだ。あれで見られてないと思うほうがおかしい。


「ずいぶん仲が良さそうでしたけど、どういう関係なんですか」

「待て! 違うんだ光里、誤解だ! 留奈先輩とは単なる部活の先輩後輩で、やましいことなんてなにひとつないんだっ!」

「はぁ、そうなんですか」


 顔をあげた光里に、どこか呆れたような目を向けられる。


「というかわたし、別になにも疑ってないですけど。そんなに必死に言い訳しなくていいですよ。わたし、まだ水科くんの彼女でもお嫁さんでもないんですから」

「今はそうかもだけど、将来のお嫁さんなわけだし……ん?」

「……?」

「光里いま、『まだ』って言わなかった? まだ水科くんの彼女でもお嫁さんでもないって」

「なっ」

「それって、将来的には彼女とかお嫁さんになる可能性は全然ある、むしろそうなるのが必然って、光里も思ってるってことで――」

「思ってませんっ。ちょっと言い方を間違えちゃっただけですっ。揚げ足を取る水科くん嫌いです、マイナス500点っ!」

「そんな殺生なっ!」


 光里はまた机に突っ伏した。髪の隙間からわずかに覗く耳が、心なしか赤くなっているように見えた。

 はぁ、また結婚が遠のいてしまった……。


 ――だけど、光里は本当に『そう思ってない』んだろうか。


 少しはその気があるからこそ、無意識にそんな言い方をしてしまったんじゃないだろうか。

 やっぱり光里も、本心では俺と結婚したいと思っているんじゃないか――と、希望的観測込みで、俺はそう思った。


 でも、だとしたら、どうして拒絶するんだろう。

 ……八年の溝は、俺の想像よりも遙かに深いのかもしれなかった。

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