女の涙は安く無いんですから

 膝を抱いてノイエはまた涙を溢す。

 どんなに抱きしめても胸の中に穴が開いたような虚無感が消えない。


 苦しい。とても苦しい。


 流れるノイエの涙をフレアは指でまた拭う。


「隊長」

「……」

「相手のことを何とも想っていないなら、そんなに苦しむことは無いのですよ」


 声音は優しくフレアは続ける。


「想っているから辛いんです。苦しいんです。そして……涙が出るんです」


 自分の心が音を立てて軋む。だがフレアは止めない。


「愛していない人を思って泣くほど……女の涙は安く無いんですから」


 両手で彼女の頬を包んで、フレアはそっと相手の額に自分の額を合わせた。


「貴女は間違いなくアルグスタ様を愛しています」

「愛して……る?」

「ええ。だからその想いを大切に。決してその気持ちを裏切らないで」

「……はい」


 驚くほど優しい声を発した相手にフレアは少し驚き目を瞠った。

 微かに微笑む上官は、寒さで白む唇を開いた。


「私はアルグ様のことがっ」

「ダメですよ」


 笑ってフレアは相手の唇に立てた人差し指を当てる。

 口を封じられたノイエはクルッとアホ毛を動かした。


「続きの言葉はアルグスタ様に言ってあげてください」

「……」

「きっと驚いて頭を撫でてくれますよ」

「……はい」


 返事を聞いてフレアはブルッと体を震わせた。長話で体が冷えて来てしまったのだ。

 立ち上がりフレアは動かずに居るノイエを見る。

 改めて毛布を巻き直した彼女は、膝を抱いて東の空を見つめている。


「アルグスタ様は見えますか?」

「……」


 フルフルと顔を左右に振る。でも彼女は動かない。


「なら何を見ているのですか?」

「アルグ様があっちに居るから」

「……そうですか」


 クスクスと笑いフレアは室内に向けて足を動かす。


「おやすみなさい隊長」


 肩越しに挨拶をすると、彼女はコクンと頷き返した。


(本当に見ている方が嫌になるくらいに幸せなんだから)


 心の中で呟き、フレアは振り返らずに砦内へと戻った。


 寒気が支配する通路を歩き、女性たちに割り振られた部屋へと向かう。

 ブジャール砦の守兵には女性兵は居なく、普段なら司令官クラスに貸し与えられる部屋の一つを分捕っ……話し合いで強奪したのだ。


 肩を震わせて歩くフレアは、扉が開いたままの部屋から明かりがこぼれているのに気付く。

 通り過ぎざまに室内を覗いたら……いつからこんなふざけたことをやるようになったのか分からない上官が居た。


 現在砦で最高位の指揮官であるハーフレンは、この寒い最中で上半身裸で愛剣を振るっていた。

 出会った頃は線の細かった少年が、今では筋骨隆々の武人らしい肉体になっている。


「野郎の裸を隠れて見る趣味でもあったか?」

「無いわよ」


 こちらを見ないでの失礼な言葉に、フレアは普通に返していた。

 一瞬慌てて口を押えて辺りを見渡したが、護衛の兵すらいない様子なのでホッと胸を撫で下ろす。


「用か?」

「……隊長と話をしてただけ」

「ノイエと?」


 剣を振るうのを止めてハーフレンが顔を向けて来た。

 全身から噴き出している汗が湯気となり体に纏わり付いている。

 その様子に呆れつつもフレアは室内に入り扉を閉じた。


「鍛練?」

「これを振るうのも久しぶりだからな」

「当たり前でしょう? 王子が前線に出るだなんて……もう止めてよね」


 ため息交じりに額を押さえ、ヅカヅカと距離を詰めたフレアは椅子の背もたれに掛かっているタオルを掴んだ。


「まだやる?」

「いや、もう寝るよ」

「なら背中。ほらこっちに向けなさい」

「へいへい」


 大剣を鞘に納めてハーフレンは素直に背を向ける。

 手を伸ばし背中を拭く彼女に違和感を感じ、ハーフレンは肩越しに後ろを見た。

 白くて綺麗な肌が、その顔が、普段以上に血の気を失っている。


「あの日か?」

「っ!」

「イタタ。おい? ちょっと待て」

「何よ?」


 背中に爪を立てられ痛みを受けつつ、彼はようやく違和感の原因に気づいた。

 振り返り両手で相手の頬を包む。白い皮膚は氷のように冷たかった。


「何してたんだ? こんなに冷たくして」

「……隊長と話してただけよ」

「馬鹿か? ノイエはどんな環境下でも病気にならない。でもお前にはあんな祝福は無いんだからな」


 相手から離れようと胸を押すが、固定された彼の掌から逃れることは出来ない。

 今まで剣を振るっていた無骨な掌は暖かく……染み渡るようにフレアの頬を、顔を、心を温める。


「体の方が寒いのだけど?」

「抱きしめろと?」

「そこの暖炉に薪をくべなさい」

「へいへい」


 鼻で笑って手を離した彼が、大きな体を動かし暖炉に薪を放り込む。

 フレアは軽く魔法語を唱えると、暖炉の中に火種を放り込んで火を点けた。


「魔法って奴はこんな時便利だよな」

「そうね」


 暖炉の前で並んで座り、フレアは彼の体の汗を拭いてやった。


「アルグは魔法も祝福も使えて羨ましい限りだ」

「そうかしら? きっとあっちは貴方の強靭な肉体を羨んでいるわよ」

「そうか?」


 無駄に分厚い筋肉を突いてフレアはクスッと笑った。


「隊長は毎晩のようにアルグスタ様に寵愛を求めて大変だとか」

「あのノイエがな」


 呆れた様子でハーフレンは上着を求め手を伸ばす。それを羽織って暖炉に手をかざす。


「人は変わるものだな」

「ええ。そうね」


 フレアも手をかざして軽く肩を震わせた。

 自分が思っていたよりも体の芯が冷えていたらしい。

 それから会話は特になく二人は暖を取ると……フレアが部屋を出るため立ち上がった。


「なあフレア」

「なに?」


 呼び止められた言葉に振り返る。

 暖炉の前に座る彼は、燃える炎に目を向けたままだった。


「無理はするなよ」

「何をいまさら?」


 ゆっくりと彼の顔がフレアを見た。

 感情のこもっていない冷たい表情だ。


「忘れたか? ここはブジャールだ」

「……忘れる訳無いでしょう」

「なら良い」


 それだけ告げて彼の顔は暖炉へと戻る。

 ギュッと自分の胸に握った手を当て……フレアはゆっくりと口を開いた。


「ハーフレン」

「ん?」

「貴方も気をつけてね」

「ああ」


 一瞬沸き上がる感情をどうにか抑え込み、フレアは後ろ髪引かれる思いで部屋を出た。


 廊下を走り流れる涙を拭う。


 忘れる訳がない。

 ここが全ての始まりの地だ。

 最悪の……最低の始まりがここだった。


 走り、滞在中使用する部屋に飛び込んで扉を閉じる。


 扉に寄りかかるようにして座り込んで大きく息を吸う。

 苦しい。走ったせいではなく、心が軋んで壊れそうだった。

 苦しさに涙を溢し……しばらく泣き続けて回復に努める。


 どうにか復活して、緩い月明かりが差し込む室内を見渡す。


 隊長であるノイエのベッドは空のままだ。そして自分が使用するベッドも空だ。

 唯一使用されているベッドには大小の女性が重なって寝ていた。

 後輩の胸を枕に寝るのはどうかと思ったが……自分の冷たそうなベッドを見つめ、フレアは軽く笑ってから使用されているベッドに向かうと横になった。




(c) 甲斐八雲

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る