第13話 湯島天神
「それで、証拠はすべて隠滅できたのだな?」
座敷の檀上、簾の向こうから声が投げかけられた。どこか神経質そうで、また居丈高な声音であった。
「はい。こちらのことを探っていた向こうの忍も、地下室での爆破に巻き込まれ、焼けた肉片と化しました」
平伏したまま、下座の忍が応える。
「結構。だが、二度とこのようなことが起こらぬよう、奴らをしかと管理せよ」
「はっ」
「計画のためならば、決して命を惜しむな。そちらなど、所詮は替えの利く余の道具に過ぎぬのだからな」
「……承知しております」
忍は頭を下げ、そして音も立てずに立ち去る。
「今に見ておれよ、偽将軍め」
簾の向こうから怨念めいた呟きが漏れ聞こえた。
番町の屋敷。剣華は自室でかりんと対座していた。
「にぃ……にぃーちゃ」
「そうだ、にぃーちゃんだ。かりん、お前の兄ちゃんだ」
「に、にぃーちゃ」
「よし、そうだ。えらいぞ」
剣華が頭を撫でてやると、かりんは無表情ながら少しだけくすぐったそうにした。
彼女は過去のことをほとんど覚えていないばかりか、とりわけ発話に関して致命的な状態であった。そのため、こうして時間があるときに少しずつ言葉を発する練習をしているのである。
「じゃあ、次は少し長いけど頑張れ。行くぞ。……にぃーちゃん、だいすき」
「にぃ、にぃーちゃ、だ、だいす……」
「だ、い、す、き」
「だ、だいしゅ……?」
「だ、い、す、き」
「剣華さん。やはり、わたくしが思った通りでございましたね」
突然の声にびくりとして顔を上げると、襖を開けて常盤が立っていた。
「い、いや、こ、これは……か、かりんに言葉を……」
「それは本当に素晴らしいことでございますね。……ですが、なぜその言葉を真っ先に?」
「え、えっと……」
しどろもどろの剣華へ、常盤はわざとらしく質問を繰り返した。
「なぜ真っ先に『おにいちゃん、だーいすきーっ!』という言葉を?」
「ぬおおおおおっ!」
剣華は恥ずかしさのあまり頭を抱えてうずくまった。
さすがにからかい過ぎたと思ったのか、常盤は急に真面目に顔になって、
「生き別れの妹様と再会できたのでございます。それくらいのことは、むしろ無理なからぬことでございましょう」
それから、きょとんとして見上げてくるかりんを、常盤は優しげに見つめて言った。
「かりんさん、良かったですね、優しいお兄さんと再会することができて」
「……?」
かりんはただ不思議そうに頭を傾げる。
「それはそうと剣華さん、そろそろ夕餉のお時間です」
「も、もうそんな時間か……」
どうやら常盤は夕餉の支度ができたので呼びに来てくれたようであった。
食事は自室で取ることもあれば、他の者たちと一緒に広座敷で取ることもあった。どちらかと言えば、夕餉は広座敷の方が多い。
広座敷に行くと、すでに膳が運び終えてあった。真鶴、一右衛門、珠藻はすでに来て、食べ始めている。
膳の上には鱚の塩焼、浅利の味噌汁、たくわん、豆腐、白飯が乗っていた。剣華とかりんは隣同士に腰を下ろす。
鷲爪組の本拠地に乗り込んでから数日が経っていた。
大雨であったこともあり、屋敷の火事は火消しがやって来てから程なくして消火された。
頭目及び四天王が全滅したことで、鷲爪組を事実上壊滅した。また屋敷内に潜入していた御庭ノ者たちは全員が無事であり、剣華が入番して最初の任務は文句なしの成功を収めた――ということになっていた。
「それにしても最近、保長さん見ないです!」
「あのじじいのこった。またどっかに忍び込んでんだろうよ」
真鶴と一右衛門のやり取りを横耳で聞きながら、剣華はかりんの食事を心配そうに見守っている。最初は完全に箸の使い方を忘れていたが、少しずつ上達してきていた。
「箸の使い方が上手くなりましたね」
「ん……」
常盤が褒めると、かりんは顔を向けて小さく頷いた。常盤はふと思い出したように提案する。
「そうそう、かりんさん。明日、一緒に湯島天神に行きませんか?」
「ゆ……?」
「湯島天神です。明日は縁日ですから」
「えん……?」
「縁日です。縁日と言うのは、神仏と縁りのある日のことで、その日にお参りするといつもよりも御利益があるんですよ。天神様は学問の神様ですし、言葉を覚えようと頑張ってるかりんさんにはちょうど良いかと思いまして」
「そうか、確かに学問の神様にお祈りすれば、かりんの失語が治るかもしれない」
常盤の提案に、剣華は少なからず期待を抱いた。
「真鶴も行きたいですよ!」
真鶴が短い手を思いきり上げた。すると珠藻が冷やかに、
「あんたはもっと別の神社に行った方が良いんじゃない? 豊胸に御利益があるところとか」
「そ、そんなところがあるですか!」
急に目を輝かせる真鶴。珠藻は鼻で笑った。
「ある訳ないじゃん」
「珠藻の胸なんて爆発すればいいですよ!」
翌日の朝、剣華はかりんを連れて湯島天神へと参拝に出かけた。
湯島天神は元々、天之手力雄命を祀って創建された。しかし南北朝の時代に北野天満宮から天神様(菅原道真公)を勧請して合祀、それゆえ現在は二柱の神様が祀られている。
境内は沢山の梅の木が植えられており、梅の名所として親しまれていた。また高台の上にあり、北に不忍池を見下ろせるなど眺望が良く、月見の名所でもあった。
縁日ともあって、門前町は大勢の参詣者で溢れ返っていた。かりんは相変わらず無言だが、物珍しそうに周囲を見渡している。迷子にならないよう、剣華はかりんの手を引いて人の合間を縫うように歩いた。
「やはりなかなかの人だかりですね」
「ほふほうへふ!(本当です!)」
「真鶴、口の中に食べ物が詰まっているときは返事しなくて良いです。行儀が悪い上に汚いですから」
その後ろを、常盤と真鶴が付いてくる。
境内前の道の両側には、食べ物や玩具、薬や香具などの屋台が所狭しと並んでいた。
「お父ちゃ、お父ちゃ!」
剣華たちの背後で元気な声が響いた。振り向くと、七、八歳ほどの女童が父親の着物を引っ張って何やら喚いていた。
「林檎! 林檎買って!」
「林檎は駄目だ。あれは酸っぱいから毒だ」
「じゃあ、蜜柑! 蜜柑買って!」
「蜜柑も駄目だ。あれも酸っぱい。毒だ」
「桃なら酸っぱくない! 桃を買って!」
「あれはお尻の形をしている。毒だ」
「じゃあ柿! 柿を買って!」
「柿も駄目だ。あれは高くて家計に毒だ」
「じゃあ、飴、飴を買って! 飴なら安いし貧乏なお父ちゃでも買えるでしょ!」
「馬鹿っ、こんなところで貧乏とか、事実でも言うでねぇ。それに、飴屋なんてどこにもねぇ」
「あるよ、ほら後ろ!」
「へい、らっしゃい。一個二銭ですぜ、旦那」
「……あ、飴なんてもんは、餓鬼が舐めるもんだ」
「あたちは餓鬼よ!」
「餓鬼ってのは、良い子にしてねぇと駄目だ」
「飴屋のおじちゃ、あたち、お父ちゃの言うこと聞いて、いろいろ欲しいものをここまで我慢してきたの」
「へぇ、そりゃあ、良い子だなぁ」
「ほら、あたち良い子! おじちゃもそう言ってる! ほら、良い子だから飴買ってよ!」
「……ちぃ」
娘の執拗なせがみに、父親はついに折れて飴を買った。それを舐めた女童は上機嫌で、
「お父ちゃ、娘に良いことしたから、その内ちゃんとした仕事見つかるよ!」
「うるせぇ!」
周囲の人たちがくすくすと笑った。
親子の一連のやり取りを見ていた剣華は、かりんに話しかける。
「かりん、欲しいものがあったら言ってくれ。何でも買ってやるからな」
「……ん」
かりんは曖昧に頷いた。
(昔のかりんなら、きっとあの子供みたいに、うるさくねだってきただろうが)
そんなことを考えて、剣華はふと一抹の寂しさを覚えてしまう。
やがて珍しい銅製の鳥居を潜って境内へと入ったとき、かりんが立ち止まった。
「かりん?」
かりんは鳥居脇にある屋台の方をじっと見つめている。
不意に良い香りが漂ってきて、剣華の鼻孔をくすぐった。香りの源はその屋台で、どうやら団子をあぶり焼きにしているようであった。
「食べたいのか?」
聞くと、かりんは小さく頷いた。剣華は屋台のおやじに声をかける。
「二串もらえるか」
「あいよ。あんたら姉妹か。可愛いからおまけしてやら」
「おれは男だ」
「はっはっは、そんな見え透いた冗談言うでねぇ」
おやじは笑って一蹴し、薄くあぶった四個刺しの団子に餡をたっぷり乗せ、さらにその上に砂糖蜜をかけた。
「ほら、お嬢ちゃん」
串を受け取ったかりんは、小さな口を目いっぱい開け、団子に噛り付いた。口の中でしばし咀嚼。
「んんっ」
かりんの大きく膨らんだ口元がふっと綻んだ。それが剣華には、再開して初めて彼女が見せた笑顔のように思えて感極まってしまう。
「そ、そんなに美味しかったか?」
「ん」
「そうかぁ。よし、兄ちゃんのもやるよ」
剣華の分を渡してやると、かりんは素直に受け取った。
蜜や餡を、手や口周りにいっぱい付けながら団子を食べていくかりん。剣華はその様子を微笑ましく見守った。さらにその二人の様子を、常盤たちが少し離れたところから見守っている。
「ぢるーも食べたいです!」
「こら真鶴。ここは兄妹水入らずですよ」
駆け出そうとした真鶴を常盤が制した。
「なら、向こうの大福餅です!」
「さっきから食べてばかりじゃないですか。……それだけ栄養を取っていて、なぜ身体の方はなかなか成長しないのでしょうね」
「何か言ったですか!」
「いいえ、何も」
やがて団子を食べ終わった剣華たちは境内の奥へと進む。途中、またしてもかりんが足を止めた。ある屋台を眺めている。
興味を持ったのかと思い、剣華は彼女の手を引いてその屋台へと近付いていった。
屋台の上には積み重なるように沢山の人形が置かれていた。
「絡繰人形だな」
「か、ら、く、り……?」
教えてあげると、かりんは途切れ途切れに言葉を繰り返した。
「らっしゃい。ちょっと見せてやろうか」
屋台の青年がそう言って、絡繰人形の一つを無造作に手に取った。人形は武芸者の格好をし、日本刀を模したと思しき玩具の刀を構えている。
「こいつは柳生新陰流の『燕飛』という技をやってのけるんだぜ」
青年は得意げに言い、人形の背にあるぜんまいを巻き始めた。
「燕飛」というのは、燕飛、猿廻、月影、山陰、浦波、浮舟、切甲、刀棒の八つの動きを流れるように繰り出すという高度な技であった。剣華は新陰流の使い手と手合わせした時、その技を見せられたことがあるため、少々期待して見入った。
青年が人形を置いて手を放す。すると人形はややぎこちないものの、可愛らしく刀を振り回し始めた。確かに「燕飛」に見えなくもない。が、いくつかの動きを見せた後、身をくるりと翻そうとしたところで足が滑ったようにひっくり返ってしまった。
倒れたまま技を繰り出していく人形を、青年は不愉快そうに掴み上げた。
「ちょっと調子が悪いみたいだ。もう一回」
ぜんまいを巻き直し、再度人形を置く。人形は律儀に最初から繰り返す。しかし、またしても先ほどと同じところで転倒してしまう。
青年はやけになったように何度か試したが、結局、一度も成功しなかった。
「くそっ。何だこいつ、まるで上手くいかねぇじゃねぇか」
忌々しそうに舌打ちする青年。
「こんなもん、売れるかよ。この失敗作め。すまんな、別の奴を――」
そのとき突然、かりんに異変が起こった。
「うぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
いきなり大声で猛り声を上げたかと思うと、
「あっ! あっ! あああああっ!」
がんがんがんと、屋台を蹴り飛ばす。
「か、かりんっ、ど、どうしたんだっ?」
無感情な妹のいきなりの豹変に、剣華は狼狽するしかない。
「この餓鬼っ、何しやがるっ!」
屋台の青年が怒鳴る。するとかりんは「ああっ!」と叫んで、一目散に駆け出してしまった。
「かりん!」
「おい待て!」
慌てて追いかけようとした剣華を、青年が憤怒の形相で呼び止める。
「申し訳ございません。二人はわたくしの連れでございます。後の責任は、わたくしが取りますので」
「ぢるーもです!」
そこへ常盤と真鶴が仲裁に入った。
苛立ちながら振り返った青年は、最初に真鶴を見てさらに顔をしかめた。しかし、常盤へと視線を転じるなり一瞬絶句して、それから頬を赤くした。
「あ、いや、そうでしたか。いえ、別に、良いんですよ。まぁ、子供のしたことですし、まったく気にしちゃいません。そ、それより、あなた、お名前は?」
「ぢるーです!」
「いや、こちらの」
「常盤と申します」
「へぇ、常盤さんですか。お、おいくつで?」
「ぢるーは無視ですか!」
その間に、剣華はかりんを追いかけていた。
「かりんっ! どこだかりんっ!」
必死に探すも、人混みに紛れてしまって容易には見つからない。
やがて男坂と呼ばれる石段坂のところへやって来る。その下の方でうずくまっているかりんを見つけた。
「かりんっ」
じろじろと好奇な眼差しでかりんを見ていた者たちを、思いきり睨みつけて追い払うと、剣華は彼女の傍に駆け寄った。
「かりん、大丈夫か?」
声をかけても、かりんは顔を伏せたまま動かない。
「どこか悪いのか?」
やはり返事はない。微かに身体が震えている。剣華は肩を抱き、優しく背中をさすった。
(……どうしたのだろうか、急に)
なぜいきなり怒りだしたのか、剣華にはまるで見当がつかなかった。
「にぃ……」
不意にかりんが顔を上げた。瞳には薄らと涙が滲んでいる。
「どうしたのだ?」
「うっ……ぅっ……」
何かを言いたそうにしながらも、しかし言葉が出ない様子であった。剣華は彼女の頭に手を置いて、優しく微笑みかけた。
「大丈夫。慌てなくても、少しずつ頑張って話せるようになっていけば良い」
「にぃ、ちゃ……」
ぎこちなくそう言って、かりんが少しだけ嬉しそうに頷いたような気がした。
しばらくして、常盤と真鶴が階段を降りてきた。
「屋台の方は何とかしておきました」
「そうか、恩に着る」
「いえ。それより今日のところは帰った方が良さそうでございますね。参拝は、わたくしたちが代わりにしておきますので」
「任せるですよ!」
「……すまぬ」
二人に見送られ、剣華はかりんを連れて湯島を後にした。相変わらず、かりんはいつもの無表情であった。
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