第9話 天雲一族ノ里

「兄ちゃん兄ちゃん! 見て見て! かりんにもここまで登れたよ!」

「こら、かりん、危ないぞ」

「大丈夫! もっと上に……わっ」

「……あ、危なかった。ほら、だから言っただろ!」

「だ、大丈夫だったもん! 今のはたまたま失敗しただけだから! 次は上手くいくもん! 兄ちゃんだってできたんだから、かりんにもできるもん!」

「……分かった分かった。分かったから、木に登るときは、必ずおれが見ている時にしろ」

「うんっ」


 かりんは可愛らしい顔に似合わず活発で、また剣華に似て負けず嫌いな子であった。

 いつも二つ年上の兄と同じことをしようとして、できないと酷く機嫌を悪くした。そして、できるまで幾度も挑戦した。そんな危なっかしくて勝気な妹に心配ばかりさせられながらも、剣華は目に入れても痛くない程に彼女を可愛がった。

 天雲一族は数百年にも渡って、因幡国の山奥、他の集落とほとんど隔離された秘境に暮らしていた。

 何もないところだが、自然ばかりは豊かで、貧しくも食料にはそれほど困ることはなかった。三十世帯にも満たない一族の者たちは、当然ながらみな血の繋がりの濃い親戚同士であり、互いに助け合い平和に暮らしていた。

 その日、剣華とかりんは二人で山に分け入って遊んでいた。木に登ったり、目当ての山菜を探したり、土竜の巣を突いたり。

 剣華は十歳、かりんは八歳であった。

 遊び疲れ、また泥だらけになった二人は、陽が暮れないうちにと、帰宅の途に付いた。集落の隅にある畑の裏側へと出た二人は、ある異変に気付く。

 畑が荒らされ、なっていた作物が無残に踏み潰されていた。

 もうすぐ収穫時だというのに、誰がこんな酷いことをしたのか。剣華とかりんは憤りながら周囲を見渡し、はっと息を呑んだ。

 人が倒れている。体付きと服装からこの畑の所有者のおじさんだと判別し、慌てて駆け寄った。二人はさらに息を呑んだ。

 おじさんの背中に大きな切り傷があった。真っ赤な血が次から次へと吹き出し続けており、まだ斬られて間もないようだ。傍におじさんの天剣が転がっている。誰かと戦い、そして斬られたのだ。


「お、おじさん! 何が、何があったんだ!」


 剣華が抱き起すと、おじさんは虚ろな目を向けた。すでに目が見えないらしい。


「しっかりしてくれ! 一体、何があったんだ!」

「に、にげ、ろ……」

「え?」

「にげ、るん、だ……はや、く……」


 おじさんは振り絞るようにしてそう告げ、意識を失った。同時に天剣が見る間に黒ずんでゆき、やがて粉塵となって風に散った。

 おじさんは事切れていた。


「だ、誰が、こんなことを……?」

「に、兄ちゃん、あそこ……」


 かりんが集落の方を指差して声を震わせた。剣華が顔を上げると、そこにも一人倒れていた。

 剣華は今にも泣き出しそうになるのを歯を食いしばって耐え、おじさんを横たわらせて立ち上がった。かりんを庇うように立ち、集落へと向かう。

 悲惨な有様であった。

 点在する家屋の間を蛇のようにのたくり走る道々に、よく見知った人たちが倒れており、辺りに血の匂いが充満している。恐怖のあまり安否の確認すらもできず、剣華は途中からかりんの手を引いて走り出していた。


(父上!)


 すでに母は亡く、二人の親は父だけであった。無我夢中で父のいる我が家へと向かう。

 家は集落の隅にあった。代々一族の長を務めてきた剣華たちの家は、集落を見下ろせる少し高いところに建てられていた。

 家に至る道を登ろうとしたとき、大きな怒号が響いた。


「何者だ貴様ら! 儂を天雲剣聖と知っての狼藉か!」


 父の声であった。


「父ちゃ――」


 思わず声を出しかけたかりんの口を慌てて塞ぐと、剣華は草むらへと隠れた。そこから様子を伺う。

 家の前。そこに父がいた。

 不動明王をも圧倒するのではないかという鬼の形相で目を剥き、天剣を隙なく構えている。その周囲を取り囲む、忍び装束を着た者たち――その数、およそ十。


(あいつらが、みんなをッ……)


 忍たちはみな例外なく異常に低い姿勢で刀を構えていた。また四肢の長さが人間離れしており、その様は蜘蛛のようであった。

 しばしの睨み合いを破り、忍の一人が地を這うような姿勢で奔った。

 空気を唸らせ、地面から太腿目がけ振り上げられた一刀を剣華の父は軽くいなし、間髪入れず忍の顔を蹴り上げる。上半身が浮いたところへ、刹那の一閃。袈裟懸けに斬り裂かれた忍は、後ろ向きに地面に倒れ込んだ。

 忍が内に着込んでいた鎖帷子は綺麗に溶かし切られて、胸に致命的な傷が走っていた。剣聖が手にする天剣は、刃縁が真っ赤に染まっていた。

 天剣神術第伍式――『紅蓮』

 いつの間にか発動されていたのは、刀身が高温・発火する神術。忍が着る程度の薄い鎖帷子など、いとも簡単に溶解させてしまうことができる。


(どうだ! お前たちなんか、父上の相手じゃない!)


 剣華の父・剣聖は、一族一の天剣の使い手であった。若い頃は里を離れ、武者修行をしながら全国を旅して回ったことがあるとも聞いていた。その旅の途中に左腕を失ってはいたが、それでも忍ごときに遅れを取るはずがない。剣華はそう確信していた。

 剣聖は倒れた男を飛び越え、残る忍たちへとにじり寄って行く。

 そのとき予期せぬ出来事が起こる。

 先ほど斬られた忍が音も無く立ち上がり、剣聖の無防備な背後に斬り掛かった。

 気配を察したか、剣聖はそれを寸でのところで身を翻して躱す。右肩が微かに斬り裂かれたが、傷は浅い。不意の事態に驚愕しつつも、剣聖は咄嗟に身体を反転させて『紅蓮』の一閃、炎に包まれた忍びの腕が宙を舞った。

 その隙に他の忍たちが、逃げ道を塞ぐようにして一斉に襲い掛かってきていた。剣聖の天剣が煌めく。

 天剣神術第参式――『変幻』

 竜巻のごとき剣の渦が、忍たちを容赦なく斬り裂く。

 だが、またも異常が起こる。身体を無残に斬り裂かれながらも、忍たちは動ずることなく前進を続けていた。


「貴様ら、不死身かっ?」


 まるで痛みを感じていない相手に、剣聖は目を大きく見開き吃驚した。

 天剣神術第肆式――『甲羅』

 即座に別の神術を発動すると、剣聖は身を護りながら忍たちの包囲網を脱出する。忍たちは陣形を整えるのみで深くは追わない。

 途端、剣聖ががくりと膝を折った。つんのめって倒れそうになるのを辛くも堪える。

 剣聖は苦しそうに全身で息をしていた。先ほど斬られた右肩の皮膚が壊死したように青くなっていた。


「ちぃっ……毒かっ……」


 刃に毒が塗られていたらしい。さすがの剣聖も、顔に焦りの色を浮かべた。

 再び忍たちが踊り掛かる。

 剣聖は必至の抵抗を見せた。いや、むしろ十人もの手練れの忍を相手にしながらも剣華の方が圧倒してさえいた。だが、毒に加えて、

 ――不死身。

 人知を超越したこの集団を前に、世に〝剣神〟とまで言わしめた剣聖も次第に劣勢に立たされていく。

 ついに忍の剣閃が、剣聖の喉笛を深く斬り裂いた。

血を撒き散らしながら、剣聖が地面に倒れ伏す。その身体へ、忍たちが一斉に刃を突き立てた。一瞬にして剣聖は血の肉塊と化した。


(くそぉぉぉっ!)


 剣華は強烈な葛藤と戦った。


(絶対に許さない! だが、かりんを一人には……)

「父ちゃぁぁぁぁぁぁぁんっ!」


 しかし、剣華の葛藤はかりんの叫び声で瞬時に霧散した。

 剣華の手を払い、草むらから飛び出すかりん。剣華が必死に手を伸ばすも、虚しく空を切った。忍たちがこちらを振り向く。剣華は妹の後を必死に追う。

 兄の天剣の真似事で持っていた短刀を抜き、かりんは我を忘れ突進していく。

 忍の刀が、その短刀を弾き飛ばす。武器を失い、それでもかりんは忍へと飛び掛かる。

 小さな身体から血の雨が降った。

 ゆっくりと後ろ向けに倒れていくかりん。ようやくにして追いつき、その身体を受け止める剣華。傷はあまりにも深く、すでに彼女は目を見開いたまま死んでいた。


「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」


 剣華は狂ったように叫び、そして、その後の記憶はない。







 番町の屋敷。宛がわれた一室で、剣華は妹と対座していた。


「かりん、覚えておらぬのか? おれだ。お前の兄の剣華だ」


 剣華は彼女の小さな手を取り、話しかける。


「にぃ……」

「そうだ、兄ちゃんだ。分かるか?」

「………」


 かりんはただ小さく俯く。

 先ほどから幾度か問いかけてはいるが、彼女はほとんど無反応であった。かつての明るかった彼女からは、まるで想像できない。


「……生きて、いたのだな」


 しかしそんな妹の反応とは関係なく、剣華は歓喜の声を漏らし、瞳に涙を浮かべていた。


「一体、どうやってあの場から生き延びたのだ? それに、今まで一体、どこで何をしていた?」

「………」


 矢継ぎ早に質問を投げかけるが、やはり応えはない。


「いや、良い。きっと辛いことも沢山あったのだろう」


 剣華はそう独り合点し、


「だが、もう大丈夫だぞ。これからは兄ちゃんが、お前を護ってやるから。また一緒に暮らそう。ああ、あちこち怪我をしているではないか。ちょっと待っておけ」


 かりんは薄汚れた肌襦袢一枚しか身に着けておらず、足は素足であった。どこかで転んだのか、身体のあちこちに擦り傷のようなものも見える。剣華は部屋を出ると、すぐに薬箱と水を入れた桶、それから手拭いを持って戻って来た。


「少し染みるかもしれぬが、我慢してくれ」


 水で絞った手拭いで傷口の泥を拭い、それから薬を塗ってやる。


「んっ」


 かりんは最初少しだけ顔をしかめたが、大人しく治療を受けた。

 それから剣華は妹の汚れた服を脱がし、身体を丁寧に拭いてやった。まともな食事を取ることができていなかったのか、五年前とあまり背丈は変わらず、驚くほど痩せている。見ていて哀れになるほどであった。


「再会した妹様をいきなり裸にして愛撫されるとは、剣華さんは意外と特殊な性癖をお持ちであったのでございますね」

「お持ちでない!」


 襖を開け、おかしなことを言いながら顔を覗かせた常盤を、剣華は鋭く睨み付けた。


「ただ身体を拭いてやっているだけだ」

「そうでございましたか。てっきり、近年流行の『妹病』とやらかと」

「何だそれは」

「いえ、何でもございません。それより、どうして亡くなられたはずの妹様が突然、あのような場所に?」

「それはおれにも分からぬ。……確かにあのとき、かりんは死んだ……そう、おれは死んだと思っていた」


 剣華は五年前のことを思い起こす。

 かりんが忍に斬られた後、剣華は山の中で目を覚ました。

 その間の記憶は、なぜかすっぱりと抜け落ちていた。

 起き上ると、自身が全裸であることに気が付いた。天剣だけが傍に落ちている。全身が重く、頭が痛んだが、それでもまったくの無傷であった。

 その場所は里からそれほど遠いところではなかった。剣華は急いで里へと戻った。途中、付近の木々がまるで台風の後のように打ち倒されていた。

 里はもぬけの殻であった。

 生きている人はもちろんのこと、死体さえも。

 あれもこれもすべて夢なのではないかと錯覚した剣華であったが、夢から覚めることはなく、消えた人々が帰ってくることはなかった。

 里を捨てて当てもなく山野を彷徨い、後に孤児として二年ほど身を寄せることになる寺へと辿り着いたのは、それから一週間後のことであった。


「かりんが忍に斬られたとき、おれはかりんが死んだと思った。だが、きっと違ったのだ。まだ生きていて……」

「ですが、どうやってその後、生き延びたのでございますか? 話を伺う限り、その忍から逃れられたとはとても思いません。それに、それでは他の方々は一体どこに……」


 常盤が訝しげに問いかける。


「それは……。だが、おれだって、なぜか知らぬが生きていたのだ。あのとき、同じようにかりんが生きていたとしても……。何より、現に今こうして目の前にいるではないか」


 どこからどう見ても、かりんなのである。違うとすれば、あの活発で勝気であった雰囲気が失われ、無口無表情で生気が感じられないところであろう。しかしそれはこの五年という歳月が、彼女を変えてしまったのだと剣華は考えた。


「これは恐らく、神仏がおれたちに与えてくれた奇跡なのだ」

「………」


 常盤は、それ以上は何も言わなかった。

 服を着せ直してやると、剣華は壊れそうなほどに細い妹の身体を優しく抱き締めて、耳元こうに囁いた。


「ごめんな。もう二度と、兄ちゃんはお前を一人にしないから」







「なるほど、何とも怪しい屋敷やのう」

「その通りぢゃ。きな臭いにおいがぷんぷんしたわい」


 江戸城本丸・天守台下に設えられた御庭御番所。御庭番の詰所であるそこで、御頭と保長が対座し、何かを密やかに話し合っていた。


「しかし、わざわざ自分らの本拠地まで晒してわしらを誘き寄せるとは、なかなか肝の据わった連中や」

「それだけ自信があるんぢゃろう」

「自信、のう」


 意味深な笑みを浮かべ、御頭が呟いた。保長は声を潜めて告げる。


「……どうやら、背後に何かいるようなのぢゃ」

「なるほどのう」

「して、どうするか?」

「知れたことよ」


 保長の問いに、御頭は不敵に笑った。


「売られた喧嘩は買う。それが江戸人のやり方や。向こうがその気なら、真正面から乗り込んで御庭番の怖ろしさをきっちり教えてやれ」

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