第7話 御庭番御頭

「さすがは天剣の使い手、お主の力は認めよう。……しかし、ただ強いだけで、人としてはまだまだ青いな」

「何だと?」


 壮年の侍に言われた言葉に、少年が柳眉をひそめた。苛立ちの色を瞳に浮べ、相手を睨み据える。だが、侍は至って平然として言う。


「そう軽率に憤るな。本当は自分でも薄々気付いておるのだろう?」

「そんなことは……ない」

「随分と天邪鬼だな。だが、今のままでは、せっかく天から授かったその力を無為に使い続けるだけだぞ?」


 侍の言葉に何か感ずることがあったのか、少年は口を噤んで押し黙った。

 しばしの沈黙の後、少年が晴れない表情で唇を開く。


「おれは……別に、それでも構わぬ」

「そうか。それは何とも惜しい話だな」


 侍は残念そうに溜息を付いた。が、すぐに気を取り直したように告げる。


「だが一つ、拙者からお主に提案がある」

「……提案だと?」


 怪訝に訊き返す少年へ、侍は厳つい顔に楽しげな笑みを浮かべ、言った。


「江戸に、来てはみぬか?」







 近頃、江戸の街は朝が遅くなりつつあった。

 かつては明け六ツの「時の鐘」が鳴る頃には庶民が起き出し、商いが始まり、街中が俄かに騒がしくなっていったものであった。それが、今では半刻近くも遅い。最大の原因は絡繰灯が庶民に普及したことであろう。行燈に使用されていた高価な油と比べ、遥かに安価な灯りのお陰で、夜が遅くなったのである。

 しかし、長く旅を続けていた剣華は、明け六ツよりもさらに早く、江戸の職人たちがようやく起き出す時刻に目を覚ます習慣が染みついていた。

 剣華は東の空が微かに白み始めた頃には起床し、着流し姿で庭に出ていた。

 大きく息を吸うと、まだ涼やかな朝の空気が五臓六腑に浸透してくるようでひどく心地よい。

 しばらくそうして佇んでいると、どこかから気の入った声が聞こえてきた。


「道場の方か」


 下駄を鳴らし、昨日の道場へと足を向ける。

 道場では常盤が瑞々しく汗を散らし、刀を振っていた。

 上段からの袈裟斬り、左脇構えから右上へと斬り返し、反転しての横斬り、床を蹴って跳びつつの逆袈裟斬り、空中で大上段に構え、そこから真っ直ぐ雷のごとき速さの斬り降ろし。それをすべて、右手一本で行った。

 さらに常盤は左手でも刀を抜いた。

 二刀を手に、常盤は道場内を蝶のごとく舞った。


「はっ! はぁっ! はぁぁっ!」


 常盤が吐き出す気迫が、びりびりと剣華の肌を打った。豪快で、しかし同時に繊細で、しかも美しい剣舞に、剣華は思わず息をするのも忘れ見惚れてしまう。


(やはり、剣の腕は確かだ)


 それを四半刻ほども続けていたであろうか、やがて常盤は二本の刀を同時に振った体勢のままぴたりと見事に制止した。

 すっと動き始めたかと思うと、二刀を鞘に華麗に収めた。常盤は呼吸を落ち着けると、いつもの感情薄めな瞳を剣華へと向ける。


「それほど情欲に満ちた目で見つめ続けられますと、さすがのわたくしも緊張で動きが鈍ってしまいます」

「だ、誰もそんな目で見てはおらぬ」

「そうでございましたか。てっきり、わたくしを妾にしたいのかと」

「なぜそうなる」

「もしかして、正妻でございますか?」


 常盤はほんの少し頬を赤らめ、手を添えた。


「け、稽古に見入っていただけだ!」

「そうでございましたか。汗で稽古着が透けたわたくしの肢体に魅入っておられた訳ではないのでございますね」

「あ、当たり前だ」


 言われて確かに常盤の稽古着が少し透けていることに気付き、剣華は思わず目を反らした。


「それはそうと、遅くなりましたが、おはようございます剣華様」

「……お、おはよう。ところで、できれば〝様〟を付けて呼ぶのはやめてくれないか。お主は変人ではあるが、一応ここでの先達であり、また年長でもあるのだ。何というか、少し奇妙な感じがする」


 剣華の申し出に、常盤は納得顔で頷いて、


「そうでございますね。でしたら、あなたとお呼びしてもよろしいでございますか?」

「まったくよろしくない」

「そうでございますか。でしたら、剣華たんはいかがでございますか?」

「喧嘩売ってるのか?」

「剣華だけに、でございますね」

「……まるで面白くない」


 むっと膨れる剣華。しかし常盤は平然と、


「では、真鶴に習って、剣華さんとお呼びすることにいたしましょう」

「まあ、妥当なところか」


 納得したところで、剣華は昨日より気になっていたことを訊ねた。


「その腰の刀は……妖刀か?」


 六本腰に差している内の一本――否、二本。魔除けの呪術が施された鞘に収まっているにも関わらず、微かに不気味な妖気が周囲へと滲み出ていた。


「そうでございます。鬼切丸、またの名を髭切りと申し、親光四天王の一人、渡辺綱が茨木童子と呼ばれる鬼の片腕を斬り落とした伝説の名刀にございます。しかし、それ以来、鬼の恨みが刀に宿り、持ち主の精神を侵食する妖刀になったとされております。昨日の試合では、抜くことを禁じられていたのでございますが……」

「あれは致し方なかった。抜かねば、切り抜けられなかっただろう」

「ですが、それは妖刀に頼らねばならぬ、己の未熟のせいでございます」


 どうやら剣に関しては、かなり真摯であるようだ。


「もう一本は?」

「こちらは鬼切丸よりもさらに危険な妖刀にございまして、めったなことでは抜かないことにしているのでございます」


 あれよりもさらに危険な妖刀……。一瞬、剣華は背中に微かな悪寒を感じた。


「二本とも、御頭からいただいたものなのでございます。お主ならば、いずれ使いこなすことができるだろうとのお言葉とともに」


 御頭、というのは御庭番の頭目のことである。剣華はまだ一度も会ったことがなく、どのような人物であるかも知らない。むろん、剣華を御庭番に入番させているのであるから、向こうは剣華のことを十分に調べ、詳しく承知していることであろう。絡繰身写しを使えば、容姿すらも事前に知ることができる。


「わたくしが剣術を習い始めたのも、御頭のお陰でございました。いえ、それ以前に、わたくしは御頭に一生かけても返せぬほどの御恩があるのです」


 常盤はふっと昔を懐かしむような目をして語り出した。


「決して珍しいことではございませんが、わたくしは貧しい農村の家庭に生まれ、育てることなどできぬからと、襤褸布一枚に包まれた状態で川岸に捨てられた身でございました。しかし、飢えて死ぬ間際、御頭に拾っていただいたのでございます。いえ、それだけではなく、どこの子とも知れぬわたくしを育て、後には下女として雇ってくださいました。常盤という名も、御頭よりいただいたものでございます。御頭がいなければ、今のわたくしはございません。ですから、こうして御庭ノ者としての務めを成し、また日々の稽古を欠かさないのは、わたくしにとっての御頭へのせめてもの恩返しなのでございます」

「そうだったのか」


 剣華は話を聞き終わるとそう頷き、


「道理で、あれほどまで稽古に心血を注ぐ訳だ」


 言いながら、ふと剣華は自問した。


(おれには、そのようなものはない)


 あの日以来、ただ愚直に剣を磨いてきた。

 天剣だけが、すべてを失った剣華にとっての唯一残されたものであった。だからこそ、剣の道に生きようとしたのは必定であったと言えるであろう。

生来の勝気で負けず嫌いな性格もあり、その結果として、いつしか剣の腕は自他ともに認め得る境地まで到達した。

だが、同時に行き付いたものは、胸に穴が開いたような空虚さで――


「剣華さんのその剣、最初はまさかとは思いましたが……どうやら本物の天剣のようでございますね」

「む、あ、ああ。そうだ。よく知っているな」


 常盤に訊ねられ、剣華は我に返る。


「武芸者の間では今も語り継がれてございますから。天剣と、そして〝剣神〟の伝説は」


 剣神――かつて、そう謳われた無双の武芸者がいた。

 その名が世に知れ渡ったのは、長州の乱と呼ばれる長州藩の領民たちが起こした大規模な一揆の時であった。

 萩城は占領され、藩主は幽閉、江戸幕府に属さない独立国が建国された。幕府への不満を抱いていた周辺国の人々が次々と集い拡大する勢力を、長らく戦乱を経験することなく弱体化していた幕府軍は容易には鎮圧することができず、一揆はますます加速していった。さらに首謀者一味の一人である雷鳴五郎と名乗る妖刀使いが討幕軍を率いて、江戸に向かって行軍を開始。幕府軍は敗北を重ね、京に近いところまでその進撃を許してしまう。

 そのような折、藁にもすがる思いで幕府が諸国から一揆鎮圧のために集めた武芸者たちの中に、その剣神がいた。

 彼は天剣という不思議な剣を手に、雷鳴五郎と対峙。丸一日に及んだという死闘の末、雷鳴五郎を打ち破った。ようやくにして初の勝利を得て勢いを取り戻した幕府軍は、その後、次々と一揆軍を打ち破り、ついには萩城を奪還。首謀者一味を全滅させ、一揆鎮圧に成功したのであった。

 長州の乱鎮圧の立役者。その男の名は、天雲剣聖と言った。

 剣華の父親である。

 天雲一族のことは一般に世間には知られていない。だが、天雲剣聖の名は、常盤が言う通り今も武芸者の間では有名であった。


「御頭はその剣神にお会いしたことがあるそうでございますよ」

「御頭が?」

「はい。幾度か手合わせしたこともあると」


(父上に会ったことがある……)


 その話を聞いて、俄かに剣華は御頭という人物への関心を強めた。

 だが、御頭は常時御城に詰めていると聞く。その一方で、御休息御庭ノ者と言いながらも、剣華にはまだ御城へ登城する資格が与えられていない。御頭と会える機会はしばらく無いだろうと思えた。

 しかし、その機会は思いのほか早く訪れることになる。







 御庭ノ者たちは任務がないとき、自由に生活することが許されていた。

 武芸の訓練に励むもよし、江戸の街を散策するもよし、行楽するもよし、昼間から酒を飲むもよし。

 剣華は基本的に朝の時間の多くを稽古に費やし、昼からは貸本屋から借りてきた草双紙で武勇伝や軍記物を読むなどした。もちろん真鶴に引っ張られて、江戸の街に遊びに行くこともあった。

 御庭番という秘匿性の高い職務の性質上か、屋敷内に奉公人は一人だけしかいなかったが、その唯一の下男がなかなか働き者であった。元々は下女であったという常盤も手伝い、炊事や掃除などをすべて為してくれるため、野宿や今にも壊れそうな旅籠で寝泊まりしながら旅を続けてきた剣華にとって、屋敷での生活はすこぶる快適であった。

 そのようにして数日が経ったある日の夕刻。その日の夕餉は、料理屋で取ろうという話になった。近年の江戸では、本格的な料理を出す店の人気が高まり、増えつつあるのだという。

 保長、常盤、真鶴、一右衛門、珠藻と連れだって、剣華は日本橋魚市へとやって来た。

 人で賑わう魚河岸の一角に、立派な造りの料理屋がいくつか並んでいた。魚が跳ねる絵と「新魚」の文字がかかれた藍染めの暖簾をくぐり、中に入る。

 通されたのは、人造の川と池のある風流な中庭に面した立派な一室であった。

 先客がいた。

 座敷の奥、金碧濃彩の絵が描かれた掛け軸の前で、座布団の上に胡坐をかいている。

 熊を思わせる頑強な体躯をした壮年の侍であった。座っているというのに、真鶴ほどの高さがある。背丈は六尺を超えるのではないかと思えた。

彼は入って来た一同を見て、優しげな笑みを浮かべた。


「おう、来おったか」


 体格に似合う、野太い声であった。それから目を細めて皆を見渡し、どこか紀州訛りのある言葉でそれぞれに声をかける。


「常盤、久しぶりやの。変わりないか」

「はい。お陰さまで、元気に過ごしております」

「一右衛門、おのしは相変わらず酒ばかり飲んでおるようやのう」

「これでも、少しは養生してるつもりなんですけどねぇ」

「真鶴、少し背が伸びたのう」

「ほんとですか!? そうかもしれません! いえ、きっとそうです! これからきっともっと伸びるです!」

「珠藻はいつ見ても綺麗やのう」

「そうですか? あたし、以前より綺麗になったつもりでしたけど?」

「はっはっは、ほんとうじゃ。寛仁な、どうやらわしの目が少々、狂っておったわ。……おのしが剣華やの」


 最後に彼は剣華に話しかけてきた。この大男は果たして何者かと訝しむ剣華に、保長が教えてくれる。


「御頭ぢゃ」

「えっ」


 驚くとともに、頷くところがあった。

 ゆったりとくつろぐように座っているにも関わらず、まるで隙がない。


(怖ろしい使い手だ……。剣術だけではない。恐らく、柔術や陰形術まで修めている)

「その通りや。武芸十八般は概ね会得しとる」


 にやりと笑って言われた御頭の一言に、剣華は驚きを重ねた。


(……まさか、おれの思考を読んだのか?)

「そう身構えんでもええ。読心術とかいう大層なものやない。ほとんど勘みたいなものや。それより、おのしの父・剣聖どのは御達者か」

「なぜおれが息子と?」

「見ればすぐに分かる。若い頃の彼奴にそっくりやからのう」


 御頭は懐かしむような目をしていた。剣華は少し躊躇を覚えたが、真実を口にした。


「……父上は、五年前に亡くなった」

「なんと」


 御頭の瞳が驚きで見開いた。それからふっと哀しそうな顔をして、


「そうか。逝きおったか。それも五年も前に。道理で、何の音沙汰もない訳や」

(……父上と、一体どういう間柄であったのだろう)


 会ったことはあると聞いていたが、もしかすると随分と親しい間柄であったのかもしれない。


「おっと、すまぬ。せっかくの場やったのう。感傷に浸るのは後にしよう。みな早う座れ」


 重くなりかけた空気を切り替えるように、御頭は明るい声音で言った。


「あたしは剣華ちゃんの隣ね」


 言いながら、珠藻が自らの腕を剣華の腕に絡ませてくる。彼女は背丈が五尺三寸(約1メートル60センチ)と剣華よりもだいぶ大柄なため、半ば上から覆いかぶさるような形であった。


「だ、だから、ちゃん付けして呼ぶなと言ってるだろう」

「えー、良いじゃん、可愛いんだしー」


 果実のような甘い香りを漂わせながら、珠藻はからからと笑う。


「可愛くなどない」


 睨み付けるが、珠藻はまるで意に介さない。


「ぢるーも剣華さんの隣ですよ!」


 御頭から見て右側の列に、珠藻と真鶴が剣華を挟んで陣取った。

 保長が嫌そうに呟く。


「むぅ、むさい男に隣に座られてはかなわんのう」

「うるせぇよ、じじい。俺の方こそ、せっかくの酒と料理を前に、加齢臭なんざ嗅ぎたかねぇよ」

「なんぢゃと。儂がいつ加齢臭を発したというのぢゃ、この酒臭男め」

「へっ、酒の匂いほど良い匂いはねぇよ。じじいの加齢臭も酒の匂いで消せりゃあいいのにな」

「お主の臭さは酒だけではないわ。自分の足の裏のにおいを嗅いでみよ。馬糞のような臭いがするわい」

「じじいの全身から発せられる肥溜め臭には負けるってぇの」

「お主は存在自体が肥溜めのようなものぢゃ」

「何だと!」

「何ぢゃ!」

「お二人とも」


 二人の醜い言い争いを、常盤が仲裁する。


「喧嘩はおやめください。わたくしが真ん中に座りますから。……我慢して」

「……ひでぇ」「……酷いのう」

「そうですよ! 喧嘩はやめるですよ! 今日は剣華さんの歓迎会です!」

「おれの?」


 剣華は驚きを覚える。まさか自分のために催されたものであるとは、露ほども思っていなかった。


「他に誰がいますか! だから、どんどん食べるです!」


 そこへ美しく着飾った女性たちが料理を運んできた。

 まず目を引いたのは屋形船を模した大きな器であった。その上に、なんとも立派な鯛の姿造りが乗っている。恐らく江戸湾にて獲れたばかりなのだろう、まだ生きているのではないかと錯覚するほど新鮮で、切り身は磨き抜いたかのように輝きを放っている。

 その周囲に、かつお、ひらめ、まぐろ、きす、こはだ、あなご、しばえび、あわび、など多種多様な魚介類が色鮮やかに並ぶ。いずれも繊細な切り方、盛り付けだ。


「剣華さん! これが刺身ですよ!」


 生魚を食べるということ自体は古くから各地でなされてきたものではあるが、ここ江戸では近年、濃口醤油の普及と相まって〝刺身〟という新たな食文化が生まれつつあった。


(これが江戸の食べ物か……)


 今まで食べたことはもちろん、見たことすらもない料理に、剣華は思わず息を呑む。


「うむ、鮮度の落ちぬうちに、早速、食べるとするか」


 御頭の一言を合図に、一同は一斉に箸を動かした。

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