第15話 汐見家、最後の一人



「文月兄ちゃんもう帰っちゃうの?」


「もうって言っても、五時になるんだが……」



 結局、樹が意識がきちんと覚醒したのは三時過ぎだった。

 そこから樹のここ一週間の話を聞き、少し遊んだらこの時刻になってしまった。

 汐見は四時ごろに帰ってきて、食材を冷蔵庫にしまうと夕食の準備をおもむろに始めた。


 俺は汐見が帰ってきてから、一言も会話しなかった。

 そして、凄く居心地が悪く、すぐにでもお暇したかった。

 しかし、樹が中々帰してくれないので結局一時間ほど汐見と同じ空間に居た。

 その間、俺たちは一言も言葉を交わさなかった。



「こら、樹。古橋君が困ってるでしょ」


「でも、姉ちゃん……」


「……ははは」



 汐見も俺と同じ空間にいるのが気まずかったのか、樹に諦めるように促す。

 どうやら俺は随分と樹に懐かれてしまったようだ。

 いつもなら嬉しい反応だが、今日に限っては少し困ってしまう。



「だからお願い、お姉ちゃんの言うことを聞いて」


「……わかった、今日は我慢する」



 数分後、汐見に説得され、少し不服そうな表情で樹はそう言う。



「……ごめんな、そうしてくれると助かる」



 俺は樹の頭を撫でながら謝罪を述べる。

(……ごめんな)

 正直、もう少し樹と遊んであげたかったけど、今日でこの関係も終わりだ。

 俺が汐見と険悪な関係になってしまったことから、この関係は今日で終わりだ。

 もしかしたら、樹は俺と汐見のぎこちない雰囲気から何かに気づいたのかもしれない。


 だから、先ほども駄々を捏ねたのかもしれない。

 樹に対しての過大評価なのか、そんな妄想をしてしまう。



「――じゃあさ、明日ぼくとお出かけしようよ?」



 俺の手の下からそんな声が聞こえてきた。



「……どうしたんだ、急に?」



 冷静を装い、樹に聞く。



「ん? 文月兄ちゃんと出かけたいだけだよ?」


「……」



 無邪気な笑みを浮かべ、俺の質問に答える樹。

 そんな樹に返す言葉がすぐに見当たらず、俺はつい黙ってしまう。



「……ちょっと待って、樹?」



 汐見がこめかみに手を当てながら言う。



「なに、姉ちゃん?」


「あのね、流石に、人様に弟を預けて面倒見てもらうのは気が引けるというか、不安と言うか」


「……?」



 汐見が樹に一生懸命訴えるが、樹は不思議そうな表情を浮かべていた。



「うーん、えっとね、樹。 とにかく同級生の古橋君に樹の御守をさせるのが不安で、申し訳ないの。 わかって?」


「……そっか」



 樹は理解したのか、そう言葉をこぼす。



「と、言うことだし、俺も明日は用事があって――」


「じゃあ姉ちゃんも一緒に行こうよ?」



 俺の言葉を遮るように、汐見にそんな提案をする。

 確かに先ほどの汐見の言い分に対しては条件をクリアしている。



「それに、さっき文月兄ちゃん、明日暇って言ってたよね?」



 今度は俺に向かってそう確認を取ってくる。



「え、そんなこと言ってたっけ?」



 俺は先ほどの樹との会話を思い出すが、そんなこと言った記憶は無かった。

 それどころか、樹との会話が碌に思い出せないでいた。



「言ってたよ! それでどう、姉ちゃん?」



 俺が必死にさっきの樹との会話を思い出そうとしている間に、再び樹は汐見に訴えかける。



「えっと、明日は優子や千弦との約束が……」


「え、でもさっき、ぼくが明日の予定を聞いたとき、何もないって言ってたよ?」


「そんな記憶は……」


「言ってたよ! 二人ともぼくとの会話覚えてないの!?」



 どうやら、汐見も俺と同じで樹との会話を覚えてないようだった。

 あんな会話をして、怒りの矛先である俺が相も変わらず家にいたら、当然だろう。

 そして、会話の内容をまるで覚えてない俺たちを、樹は悲しそうな顔で見てくる。


 俺は気まずさをグッと堪えて、汐見の顔を見る。

 すると、汐見もちょうどこちらを見ていた。

 その顔には気まずさと苛立ちが浮かんでいた。



「……だめよ、明日は家に居なさい」


「えー」



 再度、汐見に諦めるよう言われ、樹も再度不平の声を漏らす。



「お姉ちゃんの言うことを聞くんだぞ?」



 俺も樹を諦めさせるため援護射撃を行う。


「……」


「……」


「……」


 三人の間には沈黙だけが流れる。

 樹はどうやら引く気はないらしい。

 そして、俺と汐見も当然引くに引けない。

 さっきの俺の愚行さえなければこの場は簡単に収まっただろうに。

 そんな後悔を抱えながら、沈黙を破る人の言葉を待つ。


 汐見か、樹か。

 そんな沈黙を破ったのは玄関の扉をガチャリと開ける音だった。



「ただいま~! 今日は早く上がれて……って、あれ?」



 俺が振り返るとそこには四十代くらいの女性が立っていた。



「おかえり!」


「……おかえり、お母さん」



 どうやら、この女性は汐見と樹の母親のようだ。



「うん、ただいま。 それで、この方は?」



 当然の疑問を子供たちに向ける汐見母。



「あの、古橋文月って言います。 しお……楓さんと同じ高校に通う――」


「あー! 君が噂の”文月兄ちゃん”か!」



 俺が慌てて自己紹介をすると、汐見母はパンッと両手を合わせる。

 そして、急に姿勢を正す。



「楓と樹の母の汐見しおみ千和ちわです。 いつも子供たちがお世話になっています」


「あ、っと!? 古橋文月です。 こちらこそ、いつも二人にはお世話になっております」



 頭を下げ、挨拶をしてくる汐見のお母さん。

 俺も慌てて同じように対応する。



「これからも楓と樹をよろしくね、文月君」


「ええっと、こちらこそよろしくお願いします、千和さん」



 顔を上げ、微笑みながらそう言ってくる千和さんに俺もそれなりの対応で返す。



「お母さん!」



 俺と千和さんの自己紹介が終わった途端、後ろから声が聞こえた。

 そして、樹は千和さんのもとに駆け寄っていく。



「……どうしたの、樹?」



 千和さんは優しく樹に問いかける。



「二人とも明日予定が無いのに、一緒にお出かけしてくれないんだ……」


『なっ……!?』



 俺と汐見は同時にそんな声を漏らしてしまう。

 これは樹にやられたかもしれない。

 ここで千和さんが樹の味方になった場合、俺は逃げ道がないだろう。

 きっと、汐見も似たような状況になるのだろう。



「こら、樹。 あんまり二人を困らせちゃダメでしょ?」


「だってー……」



 俺の予想とは違い、千和さんは樹を優しく咎める。

 俺はその様子を見て、早く帰ろうと思い「じゃあこれで」と言いながらその場を去ろうとした。



「ちょっと待ってね、文月君」


「えっと、なんですか?」



 そう言われ、俺は千和さんに引き留められた。



「――今から、少し二人でお話しない?」


 

 千和さんから発せられたその誘い。

 きっと、断ることもできたんだろうが俺は承諾してしまった。

 千和さんの顔が真剣だったから。


 そして、俺は樹にサムズアップを向ける千和さんと一緒に近くのファミレスへと向かった。

 

 

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