第10話 汐見の家にて
目の前で、汐見が料理をしている。
汐見は黄緑色のシンプルなデザインのエプロンを身に着け、フライパンを握っている。
不思議な光景だ。
まるで、俺の妄想が実現したような景色だ。
俺は夢か現実の区別がつかなくなり、右手を自分の頬に近づける。
――そして、勢いよく摘まむ。
「……いたい」
「なにやってるの?」
樹は俺の奇行が見ていたようで、冷静に突っ込まれる。
「いやな、ちょっと自分を信じられなくなってな……」
「……?」
俺がそう返すと、樹は不思議そうな顔をしていた。
俺は室内を見回す。
六畳程度の広さ。
年季の入った壁。
壁に貼られている少し歪な絵。
そんな生活感溢れるものが目に入る。
いったいどうしてこうなった。
事態は十分ほど前に遡る――
「なんで古橋君が!?」
俺と樹が一緒にいることが理解できない汐見はそんな声を上げる。
「いや、偶然そこのショッピングモールで会って……」
「文月兄ちゃんと一緒に遊んでたんだ!」
俺のあとに続けて説明する樹。
「そ、そうなんだ……」
あからさまに動揺している汐見。
「わ、悪いな、樹を帰すの遅くなって」
「う、うん……」
「じゃあ、俺は帰るから。 じゃあな、樹」
「うん、ありがと文月兄ちゃん」
俺は樹に別れを告げ、汐見たちに背を向け歩き出す。
「ま、待って!」
俺が歩き出すとすぐにそんな声を後ろから掛けられた。
「……なに?」
俺は汐見に冷たく言い放つ。
すると、隣にいた樹の影が揺れる。
つい、汐見に学校での対応をしてしまい、樹を怖がらせてしまった。
「――樹と遊んでくれたお礼に、ご飯! 夕飯食べて行ってよ!」
「……別に、いい」
必死そうに告げる汐見。
俺はそんな汐見を見て若干心が揺れ動いたが、しっかりと断り、再び背を向けた。
そして、今度こそ帰ろうとしたが、俺の左手を樹が握ってきた。
「ね、文月兄ちゃんどうしたの?」
「……別に、これが本当の俺だから」
心配そうな表情を浮かべる樹に短くそう返す。
こんな対応する姿を見せてしまったら、もう会うことはないだろう。
そう思い、樹にもいつもの対応をする。
「じゃあさ」
樹は俺の手を放すどころか、再び口を開く。
「――夕飯がぼくから文月兄ちゃんへの報酬ってのは、どう?」
「なっ……」
樹はにやつきながら、俺にそんなことを言ってきた。
そして、そのにやつき顔から満面の笑みへと表情を変えながら口を開く。
「お返しだよ、兄ちゃん!」
「……なんだよそれ」
そんな樹を見て、俺は呆れた声を出しながら天を仰ぐ。
汐見と近づくと俺は汐見に心を開いてしまうかもしれない。
本当なら俺はこの誘いを断らなきゃいけない。
汐見との接触を避けて、真実から遠ざけなきゃいけない。
(……なのに、この弟ときたら)
本人は意図していないだろうが、俺に大義名分を差し出す。
そして、何より俺が思いもしないタイミングで仕返しをしてくる。
俺は小学生にそこまでされて引き下がれるほど人間はできてない。
だから――
「えっ何!? どうしたの!?」
俺は樹の頭に手を置き、髪をくしゃくしゃにする。
「……やってくれたな、樹」
そう言って、樹に笑いかける。
「え、てことは……?」
俺は樹に短く、おう、と返すと汐見に身体を向ける。
「じゃあ悪い、夕飯をご馳走になっても良いか?」
「え、あ、うん。いいけど……」
汐見は俺と樹のやり取りについて理解できていない様子で、そんな返事が返ってきた。
「じゃあ早く入ろ?」
「あ、ちょっと待って! ちょっと方付けをさせて!」
そう言って俺の手を引く樹。
そして、少し遅れて俺たちを追いかけてくる汐見。
こうして、俺は汐見宅で夕飯をいただくこととなった。
「じゃあ、ちょっと待ってて……」
俺を家に招き入れると、そう言い汐見はエプロンを手に取り、キッチンへと向かう。
「あ、えっと……俺も何か手伝おうか?」
「大丈夫、温めなおすだけだから。 というか、お客様なんだから座ってて」
家に上がってしまい、開き直った俺は露骨に汐見の好感度稼ぎに出る。
しかし、汐見に上手くあしらわれてしまった。
「文月兄ちゃん! これやろ、これ!」
項垂れている俺に樹がカードを持って駆け寄ってくる。
「……樹、それどうしたの?」
キッチンへと向かったはずの汐見が樹にすごい剣幕で詰め寄ってきた。
「……えっと」
露骨に視線を逸らし、言いよどむ樹。
「もしかして……」
汐見は俺の顔を見て、そんな言葉を零す。
「ああ、俺が樹に渡した」
俺は嘘偽りなく堂々と汐見に告げる。
「あんた――」
「ちょっと待ってくれ!」
今にも怒りだしそうな汐見の言葉を遮る。
「……なに、古橋君」
「これは樹が自分で働いて、手に入れたものだ。 だから、樹を怒らないでやってくれないか?」
俺はそう汐見に言い、樹に笑いかける。
「……働いた?」
「そうだよ。 樹は俺にカードゲームを教えてくれて今日という日を鮮やかにしてくれた。 だからその報酬」
そして、それに付け加えて、最低賃金より安いけどな、と恥ずかしそうに言う。
汐見は呆れたような表情をし、溜め息をこぼす。
「もう、わかったから。 怒ろうとしてごめんね、樹」
「大丈夫だよ、姉ちゃん」
仲直りをする姉弟。
「よし、じゃあやるか!」
俺がそう言うと、樹は元気よく返事をし机にカードを並べ始めた。
汐見はやれやれといった感じでキッチンへ向かい夕飯の準備を始める。
「もうすぐできるから机の上片付けてー」
キッチンから汐見の声が聞こえてくる。
「じゃあ樹、俺が片付けておくから台拭きを用意してくれ」
「うん!」
俺がカードを片付け、樹が机を吹き終わると汐見が夕食を運んできてくれた。
机の上にご飯、味噌汁、野菜炒めがそれぞれ並ぶ。
「姉ちゃん、もう食べて良い?」
汐見が食卓に着くと、随分お腹が減っていたのか樹は汐見にそう許可を取る。
「いいけど、ちゃんといただきますしてね」
「いただきます!」
「もう……」
素直にいただきますと言い、食べ始める樹。
そんな樹を汐見は若干呆れたような、でも慈愛に笑みで見つめる。
「……えっと、じゃあ俺も頂こうかな」
「あ、うん、どうぞ」
汐見に見惚れていた俺もいただきますをし、食べ始める。
そして、最初に野菜炒めを一口。
「あ……」
思わず、声を漏らす。
「あの……口に合わなかった?」
「いや、美味いなって思って……」
「なんだ、良かった……」
どうやら俺の反応で汐見に要らぬ不安を与えてしまった。
声を漏らしたとき、俺は久々に温かいご飯を食べたことに気づいた。
いつも良子さんが作り置きしてくれているが、そういう意味ではない。
誰かとこんな温かい食事をしたのはいつぶりだろう。
そんなことを考えながら箸を進める。
きっと、友達とご飯に行ったのは博之と半年以上前に。
親と食事なんてここ数年した記憶がない。
そのため、俺は驚いてしまったのだ。
誰かと食べる温かいご飯はこんなに美味しいのかと。
誰かと食べるご飯は美味しい。
そんな誰でも知ってることに俺は今日気づいたんだ。
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