記憶を踏みつけて愛に近づく

増田朋美

記憶を踏みつけて愛に近づく

記憶を踏みつけて愛に近づく

有希は今日も、製鉄所にやってきた。最近、積極的に製鉄所に行きたがるので、どうしてそんなに活発になったのか、周りの人が不思議がるくらいだ。

答えは、意外に簡単で、自分の想い人である、水穂さんに会いに行くことが、彼女の一番の目的であった。逆を言うと、それが無ければ、そういうことはしないだろうなと思われる。

有希はタクシーを降りた。駅のトイレでみつあみにした髪が、整っているのを確認して、製鉄所に突進した。そして、碌に挨拶もしないで、四畳半に突っ込んでいく。

「あの人、この頃、すごくきれいになってきたよな。だって、この前までは、髪を長くのばしていたのに、最近は、みつあみをしているよ。」

「本当だ。ちょっとへたくそなみつあみだけど、そのほうがいいぜ。だって、伸ばしていたころは、まるで貞子だったもん。」

製鉄所の利用者たちが、そんなことを言っているのにも、有希は気が付かなかった。

「一体、そんなことして、何をするつもりなんだろう?」

「知らないよ。女ってのは、俺たち男よりもはるかに複雑だぜ。ほらあ、吉原炎上を見ればわかるじゃないか。ああいう事を平気でするんだから、俺たちよりも、ずっとな。」

「バカ、お前、吉原炎上見たことあるのか。」

「ま、興味本位で見に行っただけだよ。だけどよ。あの有希さんと言う人は、そういう雰囲気を持っている女性だよ。なんかこう、艶めかしいというか、色っぽいというかさあ。そういう、女郎みたいな雰囲気があるよ、あの人は。」

「そうかそうか。で、その女郎さんが、水穂さんとくっ付いて、、、?おお、確かに其れは問題だな!」

利用者二人がそんな会話をぼそぼそとやっていると、製鉄所の柱時計が、11回なった。

「もうそんな時間か。早くお昼の支度しなきゃな。」

「おう。腹減ったぜ。」

二人はそんなことを言いながら、食堂へ宅配弁当を受け取りに行った。

一方、そんなことを言われているとは全く気が付かず、有希は、本人の頭の中ではいつも通りに食事を作って、四畳半に行く。一度持っていたお盆を置いて、ふすまを開ける。水穂さんは静かに眠っていた。

「さあ、食事ができましたよ。食べて頂戴。」

有希は、静かにおかゆの入ったお盆を、水穂さんの枕元に置いた。

「さあどうぞ。今日は、一寸味をつけてみたの。白がゆばかりじゃおもしろくないでしょ。具材は何も入ってないけど、その代わり、鶏がらであじをつけてみたわ。」

有希はそっと、水穂さんに語り掛け、起きて、と、その肩を揺さぶった。水穂さんは、そっと目を開ける。

「有希さん、、、。」

「そうよ。何かおかしいことでもあったかしら?」

わざとおどけたような顔をして、有希は言った。

「おかしいことって?」

「其れでいいでしょ。もう、忘れたの?今、あなたの世話をしてくれる人がいなかったら、あたしが担当するって、取り決めしたじゃありませんか。」

有希は、にこやかに言った。

「そうだけど、、、。」

「そうだけどじゃないわ。あたしが世話をするときは、あたしに甘えていいのよ。何でも言ってちょうだい。さ、とりあえずご飯にしましょうね。ほら、熱いうちに食べて。」

と言って、有希は、おかゆを匙で掬って、水穂さんの口元へもっていった。水穂さんはまた顔を反対方向に向けてしまう。

「食べてよ。ほら。食べないと、力が付かないわよ。それに私、聞いたわ。体重が、ほんの少ししかないんですってね。具体的な数字は言わないであげるから、その代わり、食べて頂戴。その数字では、あなた、立って歩くことさえできないばかりか、座布団から立ち上がるのだってできやしないわよ。それが、出来るには食べることが必要なの。だから、食べて。ね、お願い。」

「そういう事じゃなくて、」

水穂さんはそう言いかけたのであるが、

「ああ、無理してしゃべる必要は無いわ。其れよりも、食べることを優先して頂戴。ほら、食べて。」

と有希はさらにお匙を口元へ近づけた。

「嫌です。」

と、また顔を背けてしまう水穂さん。

「なんで?食べなくちゃダメでしょう。今回はちゃんと、やってるのよ。肉も魚も使わなかったわ。其れなのになんで食べようとしないのよ。」

「有希さん。」

「いいのよ、無理な気遣いはしなくても。他の世話係の人には、気遣いしてしまうのかも知れないけれど、あたしには、しなくていいわ。そういう事だから、気遣いしないで食べて。」

有希は、そういうのだが、もし、男の誰かから見たら、この女郎のような女性に、食べろと言われると、ちょっと怖いなと感じてしまうこともあり得た。先ほどの利用者が言った通り、最近の有希は化粧も濃く、髪はみつあみ、服装こそ派手ではなかったものの、艶めかしい雰囲気を持っていたのである。

「ほら、食べて。食べないと、何もできなくなっちゃうわ。」

改めておさじをもっていくが、水穂さんは、かけ布団を顔にかけてしまった。


と、その時だった。

「有希さん!また余計なことをして!」

急にどかどかどかと足音が聞こえてきて、由紀子が飛び込んできた。ああ、また邪魔な人がやってきた、と有希は嫌な顔をする。

「由紀子さん、あたしが何か余計なことをしたでしょうか?」

「当り前よ!なんで鶏がらで煮込んだ、おかゆなんか食べさせるのよ!鶏肉は、水穂さんに取って、大敵なのよ!」

有希が聞くと、由紀子はすぐにお盆を持ちあげて片付けてしまった。ちょっと待って!と有希は、そのあとを追いかける。

「由紀子さん待って!ちょっと、教えて頂戴!器を取り上げるなんてあんまりだわ!」

有希は急いで、食堂に飛び込んだ。由紀子は、もう器の中身を流し台にぶち込んで、きれいにあらっている所だった。

「由紀子さん、どういうことなのよ。いきなり器を取り上げて、片付けちゃうんなんて、ひどいわ!もし、いけないことがあるのなら、理由を教えて!」

「理由なんて、あなたに教えて何になるのよ。」

有希がそういうと、由紀子はそう答えた。

「何よ!あたしが、特別な人間とでも?あたしが、口で言ってもわからないから、態度で示そうとでも?それって一種の人種差別よね。他の人には、口で説明しているのに、あたしにはできないとでも?それはあたしが、ほかの人と違っているから?え?何よ!あたしが特別って!」

有希がこうなってしまうと、弟のブッチャーでさえも、其れは止められないのだった。勿論、そうなってしまうことも、由紀子が知る由もないのだが、、、。

「あたしはそういう事を、言われるために水穂さんのせわをしているわけではないのよ。だって誰も水穂さんの事、しっかり世話をしようとする人はいないし、水穂さんずっと四畳半で放置されっぱなしじゃないの!あたし、放置されていることの寂しさぐらい知ってるわよ!精神科に入院したとき、人間扱いされないで、放置されてたんですからね!その時、本当に寂しかった!水穂さんだって、それくらい、感じているんじゃないかしら!」

「有希さん、其れは違うわ。それはきっと、有希さんが、病気で入院されていて、それは有希さんにとって必要だったから、そういう処置をされていただけよ。其れと水穂さんとは違うのよ。そのくらい、わかるでしょう?」

有希がそうまくしたてるので、由紀子はそう言った。でも、有希は止まらなかった。

「わかるわけないでしょう?人間誰でも、そばに誰かが付いていてほしいでしょう?でもあたしは、そうじゃなかったわ。病院の保護室に閉じ込められて、誰にもあってはいけないって、何十日も、顔を合わせないまま過ごしたのよ。食事だって、小さな窓から、まるで郵便貰うみたいに受け渡しされてね。顔を見る事だって、許されなかった。食べ物には不自由しなかったけど、誰とも顔を合わせないで、朝も夜も昼もない、汚らしい部屋だったわ。そこで私は、一月くらい過ごすことになった。その時はもう、私が私じゃなくなったみたい。もうこの世から要らないって、はっきり捺印を押された、粗大ごみよ!だから、そういう事を知ってるから、私は、放置されている寂しさというのは、はっきり知っているのよ!水穂さんだって、そうやって放置されていたら、どんなに悲しいでしょうね。だから、そばにいたいの。ついていてやりたいの。そのどこが悪いというのよ!」

「有希さんの気持ちはわからないわけじゃないわ。でも、有希さんはやり方を間違えてる。そういう気持ちがあるのなら、もっと水穂さんの事について、勉強するとか、そういうことをしてから、水穂さんに言って!」

由紀子は、有希にそう言った。有希さんは、水穂さんの事を知っているのだろうか。有希さんは、水穂さんの過去の事、現在の事、みんな知っているのだろうか?

「しってるの?水穂さんの事。」

由紀子は、そっと有希に尋ねてみる。そうすると、有希はふっと少し溜息をついて、こういうのであった。

「知ってるわ。あたしは、水穂さんの事は知ってる。水穂さんの出身地は、伝法の坂本よ。あの地名は、富士でも有数のスラム街だって、カールさんが教えてくれたの。あたしね、一度、カールさんのお店に行ったの。だって、水穂さんの着物が、余りにもおかしな柄付きだったから、新しいの買おうって。」

今度は由紀子がびっくりする番である。なんで有希さんが、そんなこと言っているんだろう?どうして有希さんが、水穂さんの出身地を当ててしまうのだろうか。

「ちょっと待って、詳しく話せるかしら?有希さんが、どうしてそのことを知っているのか。」

有希は、由紀子にそういわれて、例の艶めかしい顔をして、こう話し始めた。

「水穂さんが着ていた着物、銘仙っていうですってね。あれは、弟がよく売れると話していたけど、あたしは、知ってるのよ。弟は、売るときにラッパーと同じだと言っているようだけど、本当は、かわたとか、えったぼしと呼ばれていた身分の人が着ていたんですってね。おかしいと思ったわ。あんなに、着ていて有利とは思えない着物を、なんでみんなが欲しがるのか、ずっと疑問に思ってた。そして、水穂さんが、それを日常着としてきているってのは、なんでなんだろうってずっと考えていたの。水穂さんが、それと同じものを日常的に着ているのは、その身分だったからに違いないと思ったわ。だって、そういう着物をわざわざおしゃれ着として着用するのは、そういう歴史的なことを、知らない人くらいなもんでしょう?知っている人は、あえて着ようとは思わないはずよ。だからあたしは、そう確信したのよ。」

「有希さん、、、。」

由紀子はそう語る有希さんに、声も出なくなった。有希さん、こんなところまでわかってしまう能力があったんだ、、、。

「ええ、そういう事でしょう。だから、新しいものを買ってあげようと思ったわ。もう、そういう着物しか着れない時代は終わったと教えてやりたかった。でも、悲しいかな、水穂さんは、それを、受け付けてくれなかったわ!そりゃ、悲しかったわよ。だからあたしは、決めたのよ!ずっとそばにいてあげようって決めたの!そのどこが悪いというのよ!」

「でも、有希さん、あたしたちにはできない事もあるじゃない。あたしにも、有希さんにもできない事がある。そのとおりなの。その通りなのよ。あたしたちとは、出身階級が違うのは、もう知られていることよ。だからこそ、あたしたちは、水穂さんの思っている悲しい気持ちは、取ってあげることはできないわ。有希さんもそれをわかってあげなくちゃ。」

由紀子がそういうと、有希は、きっぱりといった。

「いいえ、私は知ってる。身分が違おうが、関係ない。あたしは、何回も、保護室へ閉じ込められているから、社会からはみ出た存在になっているもの!だから、その時の寂しさは、よく知ってる!あたしは、だから、水穂さんが社会から外れてるっていう悲しみくらい分かるわよ!あたしだって、変な奴とか、障害のあるやつとかそういわれて、さんざんバカにされ続けて生きて来たんだから!由紀子さんは、そういう事は知らないはずよ。だって、一応駅員として、ちゃんと社会から面倒見てもらっているじゃないの!」

「有希さん、、、。」

と、由紀子はそういわれて、半分泣きたくなった。

「だから、水穂さんだって、由紀子さんからそんな愛情をもらっても、うれしくないはずよ。あなたは、いくら水穂さんの事を愛しているって言っても、社会からちゃんと認められているという条件が付いているんだから、水穂さんには永遠に近づけはしないわよ!愛情って、おんなじ物がないと、成立何かしないわよ!水穂さんのそばにいて、ずっと慰めてやれることができる人は、この私なのよ!」

こういうセリフは、障害者でなければ口に出すことはないだろう。少なくとも、現代日本で、普通に暮らしているような身分であれば。こういう映画に出てくるようなセリフを言えるのは、今の時代、外国人か、こういう障害のある人に限られる。

「有希さんは、本当に水穂さんの事が好きなのね。もう、あたしじゃ、ダメかなあ。あたしは、きっと、有希さんのいう事が眞實であれば、水穂さんには届きませんもの。そうよね、きっとそういう事なんでしょうから、、、。」

由紀子は、有希さんに言われて、ボロボロなきながら、素直に負けを認めるしかないなと思った。

「有希さんがそこまで、水穂さんの事を愛してくれるのなら、そうしてあげて。でも、これだけは言っておくわ。水穂さんは、重い病気で、肉も魚も油も一切食べてはいけないの。だから、ガラスープで、味付けは絶対にやめて。お願いだから。あと、醤油での味付けもやめて。これらは、大げさに言ったら凶器よ。だから、そういうモノは絶対に食べさせないでね。お願いね!」

「由紀子さん、凶器って、、、。」


有希がそういうと、後のほうから、ひどく咳き込んでいる音がした。

「あたし、食べさせはしたけど、口にはしなかったわ!だから、咳き込んでいることはないと思うんだけど!」

有希はそういうが、由紀子は原因がわからなくても、発作を起こすことは知っていた。食べ物がすべての原因ではない。湿気にだったり、縁側のホコリを吸い込んだりすれば、発作を引き起こす。でも、そんなことを有希に説明している暇もなく、由紀子は、一寸ごめんなさいと言って、いそいで四畳半にすっ飛んでいった。

「待って!由紀子さん、あたし、確かに鶏がらスープのおかゆを食べさせたけど、でも、彼は、実際に口に入れて、飲み込んではいないわよ!」

有希はそういうが、由紀子は答えずに、四畳半へ直行していく。

「待ってよ。まってよ!」

有希は由紀子さんの後を追いかけるのだが、由紀子は無視したままだった。

「水穂さん!」

四畳半のふすまは開けっ放しだった。由紀子は急いで、四畳半に飛び込む。水穂さんは、横むきに寝そべって咳き込んでいた。枕には少し血痕が見られた。由紀子は枕元に正座で座り、水穂さんの頭を膝に乗せ、口元にはタオルをあてがってやった。

「ほら、水穂さん。ゆっくりでいいから吐き出して。頑張って!」

由紀子は、一生懸命水穂さんの背中をさすったり、たたいたりした。もし、天童先生のような、ハンドパワーが使えたら、どんなにいいだろうと思いながら。

「水穂さんしっかり!」

後を追いかけてやってきた有希は、そう声をかけるしかできないのだった。有希には、水穂さんの背中を叩いたり、さすってやったりするという事は、思いつかなかった。

「しずかにして。大丈夫よ。吐き出したから、無事に。」

由紀子の手に握られていた、タオルが赤く染まる。由紀子さんは、大丈夫よ、大丈夫よ、と声をかけながら、そっと背中をなで続けている。

「水穂さん、薬飲もうか。薬飲んで眠れば、きっと楽になれるわ。」

由紀子は、枕元にあった、吸い飲みを取って、中身を水穂に飲ませた。食べるのには苦労するが、飲むのはさほど大変ではないらしい。吸い飲みの中身を、静かに飲み込んだ。

「良かった。」

薬を飲んで、水穂さんは、暫くは咳をしていたが、次第にそれも静かになっていった。そして、電源を切ったように静かに眠ってしまった。

「良かったわ。大事に至らなくて。」

由紀子は、水穂さんの口元についた血液をふき取った。そして、水穂さんを、そっと布団に寝かせ、掛布団をかけてやった。

「よく眠ってね。」

と、由紀子は、そう声をかけて、有希さんのほうを見ると、有希さんは、大粒の涙をこぼして泣いている。

「あたしには、あたしには、出来やしないわよ。こういうことは。あたし、怖くてたまらなかったもの。水穂さんを失うんじゃないかって、、、。」

そういう有希さんは、崩れるように座り、両手を床につけて泣き出してしまった。まるで、先ほどの由紀子と、有希の立場は逆転してしまっているかのよう、、、。

「結局。」

有希は言った。

「あたしたちにはできないわよ。水穂さんの記憶を踏みつけて、水穂さんの事を愛するという事はできやしないのよ。」

「ええ、そうね。あたしにもできやしないわ。あたしは、有希さんの言う通りだという事は、はっきり認めてるし。」

由紀子も同じことを言った。有希は、いくら水穂さんに愛情が持てても、いざというとき、手を出して助けてやることはできないし、由紀子は、手を出して、助けてやることはできても、水穂さんの本当の気もちをわかってやることはできないだろう。

あたしたちは、水穂さんに永遠に近づけないのね。そう思いながら、二人の女性は、水穂さんの姿をそっと見つめた。

「もし、水穂さんが逝ってしまうことになったら。」

と、由紀子は有希に言った。

「二人で、やすらかに送ってやりましょうね。」

有希は静かに頷いた。


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