第18話 毛糸

 今時は大型犬も室内飼いだ。


 神那と双子の住む地区には大きなコリーを二頭飼っている家がある。賢く優しいこの二頭のコリーはカストルとポルックスといい、きょうだい犬で、とても仲がいい。双子は何らかのシンパシーを感じるようで――神那にはこの良い子の二頭と訳の分からない双子のどこに共通点があるのか分からなかったが――とにかくこのよく似た二頭を好いていた。


 小学校の頃は二頭のコリーと遊ぶためにこの犬を飼っている家によく遊びに行かせてもらったものだが、高校生にもなるとそういうわけにはいかない。神那と双子の帰宅は午後六時から七時の間である――神那の部活がある日は、だ。


 今日、神那は部活がなかった。双子は簡単なミーティングがあったようだが――ちなみに写真部であるが活動実績はほぼなく――適当に菓子を食べてすぐ解散したらしい。三人が学校を出たのが午後四時過ぎ、自宅付近に戻ってきたのは五時少し前のことだった。


「あらっ、双子、神那ちゃん! 今学校の帰り?」


 二頭のコリーを従えた――というよりは二頭に引っ張られた――某家の主婦である中年女性が言う。久しぶりに二頭の散歩の時間に鉢合わせしたのだ。


 双子が二頭に向かって駆け出した。二頭も同時に後ろ足で立ち上がり舌を出し尻尾を振って双子との再会を喜んだ。


「カストル、ポルックス」

「僕たちのこと忘れてない?」


 飼い主の女性が首を横に振る。


「そんなことないわよねぇ、カストルもポルックスも双子が大好きだもんねぇ」


 双子が珍しく笑みを見せた。普段は何を考えているのか分からない無表情だが時々こうして素直に笑う。


「たまにはうちにも遊びに来てちょうだいよ、うち子供がいなくなって犬と遊ぶの私とお父さんだけになっちゃったから体力が追いつかないの」


 彼女には神那と双子より二歳上の一人息子がいたはずだが、どうやら地方の大学に入っただかで、家を出て一人暮らしを始めてしまったらしい。カストルとポルックスは彼の情操教育のために飼われた犬だったと聞いたが、犬たちも真の飼い主に置いていかれて寂しがっていることだろう。


「行きます、行きます」

「平日は学校で遅くなるから無理ですけど」

「日曜日とか僕らが散歩に行ってもいいし」


 双子が妙に素直だ。神那としては少し腹が立つ。しかもこの流れでいくとたぶん神那も一緒に散歩に行くはめになるパターンだ。


 コリーが双子のそれぞれにしがみついて尻尾を振っている。鼻先を双子のカーディガンに押し付ける――今日は雨で寒くなると聞いていたので学ランの下に春秋用の薄手ニットの紺のカーディガンとは違う黒くて分厚いセーターカーディガンの重装備だったのだが、結局暑くなって学ランを脱いだのだ。

 それが裏目に出たらしい。


 犬の片割れが双子の片割れに甘噛みをしようとした。

 犬の片割れの牙がカーディガンのボタンに食い込んだ。


「あっ」


 ボタンがひとつ、弾け飛んだ。







「――で、ボタンをつけてほしい、と」


 神那の家の和室で三人横に並んで座り、神那の母に頭を下げた。彼女は裁縫が得意だ。ボタンのひとつやふたつつけるのなどあっと言う間だろう。


 予想どおり彼女はすぐに押し入れから裁縫セットを出してきてくれたが、予想とは少し違って快諾ではなかった。


「ボタンのひとつくらい、神那ちゃん、つけられない?」


 神那は押し黙った。

 自信がなかった。それどころか、できないという確信すらあった。神那は家庭科の手芸の授業が嫌いで嫌いでたまらなかったのだ。

 今時エプロンもナップザックも既製品を安く買えるので、神那が泣きながらミシンを動かす必要はない。雑巾でさえ母がまめに古くなったフェイスタオルで作り溜めたものがあってそれを持っていけばよかった。

 そういう世界で育った神那にボタンをつけるという大技はできないのである。


 裁縫箱のふたを開けつつ、神那の母は溜息をついた。


「私がいけないのね、何でもやってあげちゃうから。まあ、私が好きだから、私がやっちゃった方が早いし、と思ってやってきちゃったけど。これから先神那だっていつどこに嫁ぐか分からないんだし、練習させなきゃだめね」


 母の言葉のひとつひとつが突き刺さり、縮こまる。


 そんな神那に助け舟を出したのは、なんと双子だった。


「いや、それは関係なくないですか」


 神那は驚いて右隣を見た。


 右隣――カーディガンを脱いでいるので奈梓の方――は真剣な顔でまっすぐ神那の母親の顔を見ていた。


「ボタンをつけられないのは僕らであって神那ちゃんじゃないです。僕らがつけられないから、身内で一番手先の器用なおばさんに頼もう、ということになったんであって。僕らがボタンをつけられないことで神那ちゃんが怒られるのは筋が違うと思います」


 神那は感嘆の息を吐いた。奈梓が他人にこうしてまっすぐ意見を言うところなど見たことがなかったのだ。


 太梓――こちらはカーディガンが無事な方――も言った。


「将来嫁ぐから、とか。違うと思います。旦那の服のボタンが取れたら旦那が自分でつければいいじゃないですか。必ずしも嫁の神那ちゃんがやる必要はない」


 そこで双子は声を重ねた。


「まあ神那ちゃんもできた方がいいと思うけど」


 それは余計な一言だ。


 しかし、神那の母親は感銘を受けたらしい。


「そう……、そうね、嫌だわ。私ったら、昭和なこと言ってたわね。今時、女の子だからボタン付けくらいできなきゃ、なんて。男の子だって手芸くらいやるわよ、もう、令和だもの。三人とも平成生まれでこれから令和の世の中を生きていくんだもの」


 裁縫セットから太い毛糸針を出し、同じく棚から出してきたカーディガンの色に似ている黒い毛糸玉を手に取る。


「じゃあ、双子ちゃんにも教えてあげなくちゃ。えっと、これは奈梓くんのものなのよね。そしたら、奈梓くん、自分で持って」

「はい」


 奈梓が素直にボタンが足りない自分のカーディガンを手に取った。


 神那はほっと息を吐いた。


 が――


「神那。あんたも、できなきゃだめ。見てなさい。男の子ができるようになるからといって女の子は免除されるわけじゃないってことを忘れずにね」

「……はい……」









 後日談。


「そういえば、お母さん、よくあんな都合よく毛糸持ってたね」

「ああ、あれはね、もともと双子ちゃんにマフラー編んであげようと思って買っておいたの。どっちかに白いのを巻いてどっちかに黒いのを巻けば私も区別がつくようになるかと思って」

「区別つける必要ある? 私つけてないけど」

「えっ!? 神那ちゃんにはついてるんじゃなかったの!?」







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