第10話 私は信号

 昔小学校の理科の授業で肺胞というものを習ったことがあるが、神那たちが住んでいる住宅街はそれに似ている。大きな幹線道路が途中で枝分かれして一本の太い気管支が伸び、途中からさらに複数の細い気管支に分かれて、その先に数軒ずつ房状に戸建てが並んでいる。

 町にはそこそこの人が住んでいるが、そこにある建物は基本的に住宅だけだ。大事なものがない。

 商店である。

 こんなに人口が密集しているというのに、幹線道路まで出ないとコンビニもスーパーもドラッグストアもないのである。


 無性に甘いものが欲しくなった神那は、パーカーのポケットにスマホと財布だけを突っ込んで、さまようように自宅のある房もとい地区を出た。

 目指すは幹線道路沿いにあるコンビニ、ターゲットはプチプラスイーツだ。すでに夕飯を食べた後だったが――否、だからこそ――デザートが食べたい。

 神那が夕飯だけで満腹にならなかったことを母は悲しく思ったようで、神那も少々申し訳なく思ったが、甘いものは別腹だし、学校の課題をやっているうちに脳がエネルギーを消費して糖分が必要になったのだと思いたい。


 街灯や住宅の灯がいくつも並ぶ道はさほど暗いとは感じない。辺りは静かで気持ちは穏やかだ。


 さて、何を食べよう。カップケーキもいいし、シュークリームもいい。プリンでも鯛焼きでもいい。なんならあんまんやカスタードクリームまんでもいい。


 妄想をたくましくしていたところで気づいた。


 すぐ正面に位置する家に変な明かりが当たっている。

 神那の後ろから、一筋のライトの光が伸びているのだ。

 誰か懐中電灯でも持って近づいてきているのだろうか。


 振り向いた。


 近づいてきているものを見て、慌てて両手を広げた。


「ストーップ!」


 そこに、自転車に乗った双子の片割れがいた。


 神那に気づいた双子の片割れが自転車のブレーキを握った。キキキ、という甲高い音を立てて止まる。


「ちょっと、双子!」


 片方しかいないのにそう呼ぶのもおかしな話だがいつものことなので神那も相手も気にしない。


「危ないでしょ! イヤホンはずしなさい!」


 片割れが顔をしかめた。右手を自分の耳元に運び、イヤホンを片方はずす。


「何だって?」

「だから、イヤホンはずせと言ってんの!」

「おお、神那ちゃんの台詞を認識する前に偶然ながらもイヤホンをはずしてしまった」


 左手も耳元に運んで、両方のイヤホンをはずした。

 アクセサリーのように首へ引っ掛ける。神那はそれも気に食わなくて「しまいなさい」と叱った。


「危ないでしょう!? 音楽を聴きながらの自転車の運転は道路交通法違反です! 自転車は軽車両だって言ってたじゃん!」


 片割れが口を尖らせる。


「たかだか家からコンビニまでの道のりで取り締まられることないって」

「取り締まられるかどうかじゃないの、周りの音が聞こえるかどうかなの」


 この気管支はけして広くない。住民の乗用車がすれ違えれば充分だからだ。したがって宅配便か何かで大型トラックが通れば脇にいる自転車や老人子供が引っ掛かってしまう危険性がある。

 しかも信号がない。交通量が少なくスピードも出せない気管支なので今までそれで大きな事故があったという話も聞かないが、ここには確かに一時停止の「止まれ」の白いペンキが塗られている。


「危ない目に遭うのはあんたなんだよ? あんた――えっと、たぶん奈梓」

「どうして悪いことしてる時だけ当たるんだろう。なぜ一瞬前の僕はたずのせいにして逃亡することを思いつかなかったのか」

「イヤホンははずす。一時停止をする。右を見て左を見て。ほら!」


 神那がそこまで言うと、奈梓は自転車を下りた。


「……降りるの?」

「神那ちゃんと二人乗りは危ないと神那ちゃんに怒られそうだと思ったからね」


 そこで彼はふと笑って、「どちらまでですかお姉さん」と訊いてきた。神那は一度唇を引き結んで顔をしかめてから、「そこのローソンです」と答えた。


「こんな夜更けですから、僕にお供をさせていただけませんか?」





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る