十九
白蛇に餓鬼をまかせた獣は、リムからもした臭いを嗅ぎながら洞窟に現れた。友達のもとへと向かう。
奥へと着くと、そこには多頭巨竜がいる。真ん中以外の四つの頭はゆらゆらと揺れて、指示を待つようにして待っている。視線を少し下げると身体の高さの半分程度から首が生え、そこより下は脚のない、いわば腹ばい状態である。バランスをとるためか、鱗に覆われた腹が横に広い。だがこれは決して太っているとか、そういうわけではないのだろう。そして後ろに短い尾が垂れ下がっている。また腹の鱗は白く、他は青っぽく輝いている。つくづく、大きく育ったな、と感心する。数十年前は実に小さかったというのに。
「なんだ、この臭いは」
居心地悪そうに呻ると、彼はずいぶんと楽しそうに答えた。
「涛のものだろう?他にもあるが、楽しかっただろ」
それを聞くと、獣の険しい顔がさらに険しくなる。だが意にも介さない竜は涛のことを話し始める。
「白大蛇に頼まれ関わったが、思った以上な面白いやつだった。好奇心旺盛な子供だ。退屈していたところだから、巻き込まれてもかまわんだろ?」
さらに真ん中の頭が続けるが、獣は人間の臭いの中に、まるっきり別の臭いを嗅ぎ取った。鉄臭い。あのときは、気づかなかったが。
「黙れ。血の臭いがするだろうが?これは誰のものだ」
一度敵と認めたものは逃さずに喰らいつくような性格なのでこれでも竜自身、少々気を遣うときもある。だから従い、人間の臭いを改めて嗅ぐ。そういえば、餓鬼の臭いにまぎれて薄いが確かにある。
「知らん。…白大蛇か?」
彼は、よく争い、けがをする目の前の獣とリムの血は嗅いだことがあった。だが喰うため以外にあまり争う必要もない白蛇の血は嗅いだことがなかった。いや、あった。この臭いは昨日の彼が駆けつけたときの、白蛇以外に考えられなかった。あのときは傷も塞がっていたのでここに、そう濃く残るはずがないのだ。もしかしたら鬼の場合もあるかもしれないが、鬼は鬼で似たものだ。
「あいつがか?あいつが人間ごときに?」
怒り始める獣が竜と同じような不揃いの牙を見せた。竜は見上げてくる視線を見つめないように天井を見上げる。正直に言えば、獣の視線は怖い。
「そうか…ならば…」
竜は見ていなかったが、獣は洞窟を出ながら嬉しそうに笑っていた。出るなり、駆け出すほどに。
あんな非力な人間の子供が、白大蛇を傷つけたことに疑問はなかった。あのとき、まさか人間が生き残るとは考えていなかったことに加え、しかも操られた人間さえも助けた。実力だけは認めざるをえない。それに、あっさりと餓鬼を切り捨ててしまっていた。ありえない。
(さて…どうするか)
明下という子供が入っていた家の窓をのぞくとまだ寝ている涛がいた。だが目は覚めている。ただ寝転がっているだけ。まだ動けそうではなかったが、気はたしかなようだった。遮詠の足音に気づいていたらしく、彼の目を脱力気味に見つめ返している。
「杉嵩、答えろ。おまえはなぜ、白大蛇を傷つけた?」
「は?…は、くだ…がこ…」
けど、病気はうつさないでね
何とか言い出しながら、このとき彼ははっとする。自分には理由がないことに。あの子供らは自分のことを、いや子供と親は…
「俺が、勝手にやった」
子供は力なくそれだけ言い直して、より無気力となった。
「仲間を傷つけて、何もないとでも思っているのか?」
その声を聞くより、ごめんなさい、と謝りたかった。白蛇に。自分が悪かったと。彼は自分のために怒ってくれたのだと、今初めて、思い当たったのだった。そんなふうに怒ってくれたのは、あの裏切り以来、初めてだった。
「聞いているのか?おい、子供」
目が熱くなった。胸から何かがせりあがってきた。何も考えられなくなった。
返事をしない涛に、獣は慌てた。彼は何度も、何年も人間の観察をしていたことはあったが、これはどうしていいのか、初めてだった。
泣いていた。
夕方になると、男はいなかった。だから何とか歩きながら、家の裏と見えない遮詠の前で泣いていた。
倒木の上に座って、ずっと泣き続ける子供をどうしたらいいものか、獣は悩んでいる。とりあえず子供と白蛇、リムの臭いが最も濃いところまできたが、もう何十分もずっとこの状態だ。
もう日も暮れて、冷気があたりを支配する場所から一刻も早く立ち去りたいが、放置することはどうしてもできない。仕返しをしなければいけない。白大蛇が死ななかったことを見て、片手を使えなくする程度でいいか、と心に決めていた。
「子供、いつまでそうしてる気だ?」
耐えられないのはこちらだ、といいたそうに言うと、二人の間に風が吹きぬけた。
「黙れ。そうしていても何も変わらない」
その言葉を聞いた涛は急に声を止めた。だが顔を覆う両の手の平をはがそうとはしない。だが獣の放ったその一言は耳朶に留まり、響き続けた。
何も、変わらない。
その言葉は涛を突き動かす。
ゆらりと立ち上がり、ふらふらと、しかし力強く山を登り始めた。怪我も忘れ、一つの思いにただ、従った。獣は必死な顔で去った子供の気迫に唖然としながら、追いかけた。心底感心した。
木々の間を、今の自分の全力で走る子供にとって、木も草もそして鬼もただの障害物でしかなかった。夜に生きる鬼たちは好戦的なやつで、山中をずっと徘徊している。そして目に付いたひ弱な人間は逃げているように見えたのか、子供を追いかける。
追いつくもの、目の前に飛び出してくるもの、上から飛び掛ってくるもの。
「るっせえ!」
それらは全て、怒涛に駆け抜ける人間には全てさけられる。だが涛はただ、謝りたいがために、友達のために走り続ける。
鬼の走っている道を駆けるには、かなりの時間を要する。獣は人間とは思えぬ速さの少年との距離が開いていることを疑問に思うしかなかった。
白蛇の寝床に到着すると、もう胸が痛くて、苦しくて、倒れそうになった。だがこのまま帰ったら『何も変わらない』ままなのだ。死んでも、死にきれない。
岩に足をかけて登り、ぽっかりと空いている穴のふちに座った。こわばる体の力が抜ける。すると闇の奥からあの声が流れ出る。
「どうした?人間」
いつもの声だが、名前で呼んで欲しかった。これが傷つけてしまってできた壁ならば、仕方ないかと思う。だがもう少し話しやすいのにと考える。だから白蛇ではなく、白大蛇、と呼ぶことにする。
「白大蛇、俺が…わ…」
名前は呼べたが、後に続く言葉がしぼんでしまう。やっぱり自分が悪いとは認めたくないようだ。だが白蛇には聞こえたらしい。返事が来た。
「悪かった、か…。一つ聞きたい。人間にとっての『悪』とはなんだ?」
悪。憲兵に捕まる人、国に対して何かを言う人、と教えられてきた。だが、自分にとってはそんなものはどうでもいいに等しい。
「加害者、か?」
それはまぎれもない自分のこと。傷つけた自分のこと。
「ならば、我もそれ、か」
悟るような、諦めたような物言いだ。白蛇は確かに、子供に危害を加えた、加害者だ。
「…何言ってんだよ」
だが、傷つけてなんて、いなかった。だからまだ、
「白蛇は、あいつらを喰ってねえから…」
また言葉がしぼむ。だがやはり、聞こえているようだった。
「加害者ではない、まだ悪ではない、と?そうか、ならば、おまえは一人で悪となろうぞ」
そうだ、俺は、悪、だ。それを否定するつもりなんて、ない。
「それでいいんだよ。俺は、加害者だから、さ」
否定、するつもり、なんて。
「悪、非人道的なこと、否定すべき物事、か」
白蛇は、語った。
「おまえは、もし我が、人間を襲ったらそれを悪と見るか?」
悪。別にいい。
「だが逆に、人間が我を襲ったらそれを悪と見るか?」
悪。許せない。
「おまえは、どうだ?答えられまい」
答えられない。
「なぜ人間は善悪の区別をつけ、善へと行こうとする?『否定すべき物事』と言うが、おまえらは人間どうし、殺しあえば摑まり、悪だと言うが、家畜などを殺めることはなんとも思っているまい?」
死が、悪なら。
「我は、我のような仲間も喰えるつもりだ。それは生きるためだが、殺めることは悪。おかしいな?生きるための善、故の悪。それに区別などあるまい」
なんだか、難しかった。結局、何が言いたいのか……
「要するに、善も悪も、人間が考えたことに過ぎぬ。おまえはただ、仲間の人間を守りたかった。つまり生かすための善をした。だが代わりに我を斬って、悪をした」
もともと、善悪なんてものはない、ということだろうか。
「そして、我は、そんなものはない。我が、悪かった」
語り声から一変し、自分が言ったようなおどおどとした意外な言葉だった。白蛇が謝った。自分が悪いのに。
「白蛇が謝るなよ!」
思わず闇に叫んだ。自分が悪かったと言っているのに、そちらまで謝られると恥ずかしくなってしまう。白黒はっきりしない、といったところだろうか。
「いや、我のせいだ。善きことなど一片もなかった。おまえは、守ろうとしただろう」
善いこと、一つだけあるじゃないか。白蛇は自分を責めているようだ。だから、これをどうしても言わないといけなかった。
「白蛇は、俺のために怒ってくれたんだろ……?」
正直に言えば、嬉しかった。自分のために怒ってくれたことは、ここしばらく、何年もなかった。自分なんかのために、とあの後考えて、嬉しかった。
「そうか…あまり憶えておらんが、そうだった気がするな。ならば我も、善悪も何もないか」
白蛇がようやく、笑った。いつもの押し殺したような、それがいつもの笑い。自分は思わず軽く笑う。やっぱり、一緒にいた方が、楽しい。
それもひと段落したら、一つ、気にかけていた疑問が浮かんだ。
「白蛇、俺たちの関係って、なんだ?答えてくれよ」
友達から崩れて、それが戻ったら何になるのだろう。
「我か答えるのか?涛、おまえも答えるなら、答えてもよいぞ?」
結局そうなるのか、と思いつつ、同時に答えることにした。
「いっせーのーで」
闇を通して、二つの声が混ざり合う。
「友、だ」
「友達」
途端、二人とも笑い出した。噛み殺すような笑いと腹の底からの笑いを、互いに。結局、思っていたことは同じだったということだ。一度結ばれた縁は、よほどのことない限り切れないもののようだ。
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