十八
男が涛のことを看ていてくれるというので明下は友人の家から橙の光に出て、その左手の角から目までをのぞかせている蛇に声をかけられた。
「帰るのか?」
そう聞かれたので彼に小さく頷くと、続けた。怒っているようで、そうでもなさそうな声で。
「時はあるか?よければあいつについて話してやってもよい」
それは是非とも知りたかった。以前から杉嵩について何も知らない。なんであんなふうになっていたのかも。赤の目を見つめて頷く。
「ならば来い。裏だ」
蛇の頭部が持ち上がって陰に消えた。そちらへと足を踏み出す。恐怖もある。だが知りたい。これまでの、自分の知らない涛について。
裏には蛇と鷹と見知らぬ獣が座っていた。これも巨大だ。普段見ている者たちが彼らより小さいせいか、自分がとても小さく感じられた。
蛇が人間のように首が傾ける。
「ん?こいつは初めてか。我は人間からは白大蛇、涛からは白蛇、と呼ばれている、人間からして我らは妖怪というものだ。こっちは」
ずいぶんと丁寧な物言いをしながら、鷹の方に鼻を向けた。
「リムだ。そっちは遮詠。お前は、明下幸、でよいのだな?」
なぜ知っているのだろう、と思ったがこわいので尋ねられない。さて、と白蛇が続ける。
「しばらく聞け。あいつはもとより我々――おまえらの言う妖怪が見える体質らしくてな、数年前、我とあいつはこの山で会った。こいつらは数日前だがな。我と会ったあと、身を守るためにとあの刀をもってくるようになった。それから、あいつはいつも我のもとへ来てな、会うまでは餓鬼などに追われる。おまえも見ただろう?あいつを運んでくるときにいくつか聞こえた、音の先に何かがいたのを。それから身を守るため、あれを持っている。あとは、おおよそ分かるだろう?おまえとの関係などを考えれば。これ以上は何も言わん。考えろ」
ずっと出し入れしていた舌が、喋ることに邪魔ではないのかと明下は思ったが、本人が慣れているようなので気にしないことにする。
そうか、友達はずっと辛くて、ずっと死なずに必死に生きてきたんだ。なんだか、自分が恥ずかしい気がする。彼の友達は人間ではない者、それらに今、恐れを抱いていた。彼に生きる希望を持たせていてくれたのだ。それは、彼らに対して失礼にあたいするであろう。それに、ここまでとどめを刺したのは、他ならぬ自分だ。
「ごめん…なさい」
その口から、そう言葉がかすれて出た。きっと彼らはなぜ、と思うかもしれないが、こうしたかった。
うつむいていて分からないが、リムだと思われる甲高い声が響く。
「へ?何を謝ってんのよ。あんた、私たちに何かしたかしら?涛を傷つけたってことは、あんたのやったことじゃないんだし、別にいいじゃない」
「そうじゃなくて…その、白大蛇」
リムの言葉を少し否定しながら、面を上げる。やはり不安だらけだった。
「僕が、その、杉嵩を、えっと、こんなふうに、しちゃった、から」
彼は、怒鳴りつけるのだろうか。
また視線を下ろした明下を見ながら、だが白蛇はため息をついた。そして謝る必要などない、と言った。
「我は、杉嵩のおかげで、今ここにいる。あと少しで、気が狂うかもしれなかったでな」
無の日々は、ときに破壊をもたらす
「それにあの子、まだまだ死ぬつもりはないみたいだしね」
その声に顔を少しだけ上げてみると、三匹の中で、鷹だけが、鳥らしく首を動かし、涛の家の中を窓からうかがうようにして、ちらりと見る。表情は全く変化が無いとしか見えないが、彼女なりのなぐさめなのだと思うことにする。視界の右にいる遮詠が腰をあげた。こちらを睨んでいるが、白蛇を見やるなり山へと駆けていってしまった。
「あ…」
風のように駆けていってしまって、思わず顔をあげて声が出る。逃げていくから、何のために、と。それが顔に出てしまった、と分かった頃には白蛇はそれを指摘する。
「あいつはおまえを嫌っているわけではない。ただ、おまえにとりついた餓鬼を捜してくるとのことだ。すぐに戻るだろう。近くにいるようだったからな」
そうか。それにしてもなぜ自分は彼らが見えるのだろうか。昨日は見えなかったし…昨日?そういえば…昨日…なのだろうか?
白蛇が首をもたげて人間のように首を横に曲げている。そしてリムは鳥らしく、くるくるとあたりに目線をむけ続けている。
なんだか、質問できる雰囲気ではなかった。
「明下、何か聞きたそうだな」
睨む白蛇は鋭い。さっきから自分の心を読んでいるように尋ねてくる。唐突でとまどうが、でも聞かなければならない。おどおどしく答える。
「その、どうして僕、あなたたちが見えるようになったのかなって…」
どうせ無駄だと思ったがその通りだった。二匹とも目を合わせて首をかしげるだけだった。
ゆっくり目が覚めれば、見覚えある天井がそこにある。
左に視線を向ければ男がこちらを見て笑っていた。とても温かい感じがする。そして久しぶりの感覚だ。優しさだ。
「やっと目が覚めたね。大丈夫?傷は浅かったけど、多くて大変だったよ。君の友達が急いでくれてなんとか治せたよ。浅い傷だらけでとても怖かったけどね。僕の腕で、大丈夫だった?」
生きてるんだ、俺
そうとしか考えられなかった。嬉しいという本来の意思と、まだ誰かと付き合わねばならないという思いが複雑にからまりあう。
「そっか」
男と反対側の右の囲炉裏を見つめると、木炭の一欠片が崩れて灰に埋もれた。
「うん。本当によかったね」
「よかった」
明下は、どうしているだろうか。自分を責めていなければいいのだが。あいつはこういうときだけ自分を追い込む。いらないというのに。むしろ、こちらが謝らなければならないというのに。きっと、あれは本意ではないだろうと、うすうす分かっていたのに。
家に帰ろう。そう思った。
疲れたし、お母さんに顔を見せないと。きっと心配しているだろう。だけどこの服だったら帰りにくいな…
なぜか泥と赤まみれの服。泥は分かるが、赤はあまり気にしたくない。これは、そう。きっと、あれだ。
「じゃあ、ね。白大蛇と、リム」
妖怪二人…二匹と言った方がいいのだろうか、分からないが彼らにそう言って、自分はきびすを返した。
杉嵩の家の裏の角を曲がるとばさりと羽ばたきが聞こえ、自分が、一瞬だが影に隠れた。大きい影だ。きっとリムのものだろう。上を向けば大きい鳥の陰が見える。そして数秒もすれば小さくなっていく。きっとリムも…
帰らなければ。
家の扉を開けて、まずどう言おうか、考えながら歩いた。
だが考えている間もなかった。気がつけば家の前の道。その上に立っている母親の影が自分に向かって伸びている。帰り道を示しているように。
「…ただいま」
今出せる大きな声。これくらいしか言葉が思いつかなかった。
母親はこの声に気づいて振り向いた。逆光でよく分からないが、嬉しそうに笑っていそうだった。
たった、わすかなことのはずなのに。本当はもっと長かったようだ。同時に頬に何かが伝い落ちた。
「幸、どうしてたの?服をこんなにして!」
「ちょっと、遊んでただけだよ」
大嘘だが、笑顔で答えるしかなかった。
「ごめんなさい」
だが、これは本当。本当に、ごめんなさい。
「遮詠」
白蛇が、口に何かをくわえている白い獣の名を呼んだ。ここはすでに彼が寝床にしている穴の前だ。
「何だ。こいつに話でも聞きたいのか?」
くわえたまま声を出す遮詠は、当然だろうと思った。目的のこと、明下になぜ自分達が見えるかということ、その他にも知りたいことがたくさんあるのだ。特に涛が死にかけたことを一番重んじているしている白蛇にとっては。
「こいつは気がついているから、言えば目を覚ますだろう。どうせまた何か企んでいるだろうから、始末しようと思っていたんだけどな」
「我がしよう。友を死に追いやろうとしたつぐないとして、我がしよう」
遮詠にはよく分からないが白蛇にしたいことをさせることにする。牙に餓鬼をひっかけたままさっさと話を済ますように首で示す。餓鬼は微動だにしない。
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