十六
狩人は時に慈悲深く、残酷である
「何言ってるの?杉嵩。僕だよ」
微笑んでいるその顔は明らかに違っていた。まず第一に口調に声音、先ほど気づいたが後ろの彼を見ていた。一瞬だが、じっと。彼は見えない。妖怪が見えるはずがない。
数秒の視線を交え、明下はやれやれと肩をすくめながら諦めたように言う。
「あーあ、やっぱり人間の真似はできねえか」
彼に似合わない言葉が吐き出され、つらつらと言い述べる。
「人間ってのは不便だな?足は遅いし、何も持ってねえし。おかげでいつものここまでの道で倍くらい時間かかっちまった」
そこで一旦右手の短刀の刃を目の前で見て、不気味に笑う。涛は悪寒を感じたが、平然と構えている。
「ま、いいか。こんな面白い物見つけたしな。これでおまえを思う存分…」
明下の目がかっと開き、頬が吊りあがる。そして構えの姿勢の涛に向かって駆け込んだ。それと同時に反応して右中の頭が動き、ぐわりと大口を開けて明下の前に躍り出る。
「ざけんな!」
涛が蛇腹に視界を遮られたとき、大きく叫びながら、それに刀を振り、切っ先で白く大きな鱗を斬った。痛みを感じたのか、それは動きを止めて大きく息を吐く。たしかに、赤が流れ出ている。
「邪魔するな。我らが死んでもいいというのか?」
頭を持ち上げて涛の前からいら立たしげに言いながらどく。その頃には、彼の目前に刃物の切っ先が向かっていた。それを持つ醜い形相の本人の顔はさきほどから変わっていない。それを、身体を右に傾け、左手の刀で弾く。
「こいつは殺させねえよ、己」
低い声で威嚇するように言いながら、鬼が右に弾かれた得物を、そのままぐるりと回って斬りつけようとするが、それも弾かれる。そうしながら己に言った言葉は彼を怒らせるには十分であった。牙をむいて叫ぶ。
「ほざけ!力のないやつがそいつを戻すだと?馬鹿を言うな。のっとられたやつはもう殺すしか救いようのない、ただの人形だ!」
岩壁に反響して向こうの餓鬼をも震わせるほどの声。だが逃げ出さなかった。腕と手だけを動かして、怒りを秘めながらも冷静に涛は短刀を弾く。そして後ろから息を荒げている音が聞こえた。怒っている、とは感じたが振り向くわけにはいかないために彼も怒りを込めて叫ぶ。
「るせぇ!部外者は黙ってろ!」
それも反響したが妖怪の比ではないほどの気迫を持っていた。さすがの彼も押し黙り、人間の形をした餓鬼は大きく振られた刀を避けて一歩引く。
「死んでもいいのか?んなもんどうでもいい。俺は――」
これまでにないほどの怒りで、明下を見つめながら、次は押し殺しながら消える声で呟く。そして刀で空を払って、息を深く吐き、両手で柄を掴んだ。だがその刀の刃は涛に向いていた。明下の顔がそれを見て笑い、歪んだ。それに対して涛の顔は固い。
「なんだ?どうするつもりだ?もっと楽しませろ。人間」
これで終わり、とでも思ったのかあざわらうかのように言い、また彼に向かった。
小さな刃が縦に閃く、横に向けられた刀の背が受け止める、刃を引いて下を突くと、左腕を浅く斬って、腹にとどくかと思われたが、いつの間にか刀から離れた右手がそれを殴る。その衝撃のまま右から左へとなごうとすると、反応できずに、何も握っていない右手の甲が深く斬れる。
「いい加減にしろよ、とっととそいつから出てけ」
血を流しながら、何度もそう言いながら防御し続け、そして再び明下の体が突こうと身を引いて突き出したときに、涛が胴に向かって突き出されるものを、身体を、服を犠牲にして、ひねってかわし、刀の柄が、力の行き場を失った明下の不安定な身体のうなじに、ぶつけられる。そのまま明下の身体がどさりと地面に落ちる。
「残るはおまえらだけだ。来るならさっさとしろ」
明下の身体を無表情に見下ろしながら、背後の餓鬼の群れへと言う。餓鬼が涛へと向かっていく気配はない。だが去る気配もない。動かない、僅かに呼吸だけが木霊し、聞こえる。
「涛、疲れているのではないか?」
中の頭の蒼い目が少年を見下ろし、告げる。だがそれに刀を下ろした、肩で息をする彼は答えなかった。ただ静かで冷たい沈黙。たまに餓鬼か己が僅かに動くだけだ。
餓鬼は逃げなかった。明下の身体も動かなかった。涛も動かなかった。
そのまま、数分間経つ。と、ようやく涛が動いた。
「いつまでも寝たふりすんな」
倒れている身体を見つめながら、背中に己の巨体がある位置に移動し、先ほどと同じように言う。怒っている。そう感じたからこそ餓鬼たちは動かなかった。右手の甲から流れるものを見て、顔を痛みにしかめる。そして左手で刀を構える。
「あーあ、やっぱ無理か」
明下の唇から声が漏れる。まだしっかりと握っていた短刀を、頭の上の涛の脚へと向け突く。反応できなかったのか腿にそれがささる。服が裂けて血が滲み出るが、かまっていられない。突き刺したまま明下は反動をつけて立ち上がり、振り返りざま短刀を掴んで、地を蹴って引き抜きながら下がる。
「やっと本気でも出すつもりか?おせーぞ」
次は涛が嬉しそうな笑みを浮かべた。傷を受けてしまったことに、自分自身を笑っているようだ。それに明下の顔は笑う。
「いいだろ?そんなこと。それより、おまえは人間か?」
明下の身体の餓鬼から見たら、もはや涛は人間とは映らなかった。いや、人間だとは思うが人間らしくはない。気配といい、先ほどから作られた傷を笑っているのだ。人間なら叫んだりするもののはずだ。
少年はみずから来ようとはしない。ならば、と明下の目は背後を見やる。それを見て、餓鬼たちは全て走り出す。その後明下の身体が動く。
「餓鬼は好きにしていいぜ、おまえら…」
ちらりと竜を顧みて、左腿にできた服の裂け目と赤い流れを見る。手当てはいつできるのか分かったものでもない。だがそれはどうでもよかった。
「準備はいいらしいな?」
そして、いつもの構え。久しぶりに、どこかが楽しかった。それは、うずく復讐心とでも言うのだろうか。
白蛇は絶景の崖の下でじっと動かないでいた。
身体のところどころに、鱗の下にできた真っ赤な傷。そこから垂れる液体。別に致命傷でもなんでもないかすり傷といってもいいものだ。
「やれやれだ…」
先ほど全ての餓鬼を飲み終えたところで、涛の下へと行きたかったが、傷が開いてほしくないので仕方なく動かないでいる。真っ赤なのは眼も同じであるが生気に満ちていた。久しぶりに襲われて応戦したという本能というか、そのようなものだ。
それが、非常に楽しかった
数十年ぶりの互いに生き残ろうとする戦いだ。彼は負けることはないが、それはそれで退屈であり、それ以上に誰も挑んでこない。なので退屈この上なかった。五十年ほども襲ってこなければそれはもう暇なのだ。餓えはなかなか来ることはないし、話す相手はたまに来るリムか鬼か、数年前にできた人間の友である、杉嵩涛だけであった。
特に人間である涛と話せるようになったのは非常に楽しかった。毎日が新しいような、そんな気がしていた。だが新しいわけではない。彼を取り巻く者が一つ増えただけである。
だれも近寄ろうとはしない、餓鬼から見れば絶対的に近い力。
別に忌むものでもないが、なんとなく、ずっと寂しい思いをしてきたような気がする。
「白大蛇」
獣の声。別に気遣うこともない、いつものように冷たい声。
「なんだ?遮詠。我は平気だ。だが動きたくないのだ」
頭を持ち上げて木々の向こうにいる獣の顔を見る。特に変わった様子はなかった。やはり同類ということであろうか。年月は過ぎようとも姿かたちは変わらない。
動きたくない、というのは実は傷のことだけではなかった。何か分からないがそれが彼をここにしばっていた。これもなんとなく、ではあるが。
「そうか。おれは己の下へ行く。さっさと来るなら来い。あいつが死んでいるかもしれないしな。別におれはそれでもいい」
一応、言っているということは白蛇を心配してのことだろう。後に彼がどうにかならないように。まるでこれまで、遠目から彼らを見ていたようだ。
もう、我らは…
「そのときは知らせろ。人間は意外と強いものだ。我はもう少し、ここにいる」
「そうか」
遮詠はきびすを返して再び木々に消えていった。残された白蛇はもう一度顎を背中に乗せて、再び一息つく。ちょうどいつものように出し入れしている舌に自分の血が触れた。
「……」
鉄のような、どこかおかしな味。いつかの涛のものと、同じ味。
「…」
そのまま、彼は時が過ぎるのを待った。いつ傷が癒えるかは知らないがそう遠くはないだろう。この身体の再生力は数日足らずで骨が繋がるほどなので数時間もすればまた新たな鱗ができ始める。だからといって、やっぱりこのまま待つことをやめることにする。それに、次に見える人間が、亡骸であってほしくなかった。友達の亡骸は、もう友達などではない。
僅かな光の届く穴の中、金属がぶつかりあう音と餓鬼の声と明下の声が入り混じってこだましていた。
「どうしたんだよ?さっきまでの威勢はどうした?」
楽しそうな餓鬼の人格の、明下の声が、いくつもの傷を作られた涛に届くが、聞いた本人は、息を荒げながら短刀の軌跡を受け止め、たまに飛んでくる餓鬼をほふる。
「どうしたものか…」
主頭が呟いた。目の前では二人の人間が刃物で戦っており、増えていく餓鬼の山を真ん中の頭以外がむさぼっていた。だが餓鬼は減らない。やはりあの人間の器をどうにかするべきなのであろうが、手を出すなと言われている。ならば、ながめていようと今、決める。
彼にとっては何かおかしく思えた。餓鬼は恐怖を持っているはずなのだが、これには涛の刀に恐れることなく、そして自分に恐れることなく向かってくる。だが己への意志はあるように涛を狙っている。臭気に寄せられているようにも見える。
短刀の横なぎを受け止めた涛が、明下のその手首を掴んで引き寄せ、体勢を崩した身体の耳に激情をはらみながら言う。
「いい加減にしろよ。おまえ、何がなんだか知らねえけどよ」
むっと、刀からの臭気が増した。思わず己が呻る。
「人間が嫌いなら自分の手でやれよ。仲間をまきこんでんじゃ、ねえよ」
傷だらけの体はふらりとする。
「それに、そいつを使えば、どうにかなるとでも、思ってんのかよ」
その体の右手に力が込められる。嬉しそうに笑った。
「残念だけど、そいつは――」
涛が明下の耳元で何か呟き、そして、突き出した。刃が飛んだ。貫いた。二つの人間の体が倒れた。動かなくなった。見届けて、胸に痛みを感じた涛が、短刀が地面に落ちる、かわいた音を聞く。
気に入っていた服は血がにじみ、真っ赤であった。世界が揺れる。意外と多く血を流していたらしい。それほど時間が過ぎたのだろうか。だが、まだ終わってはいない。餓鬼が残っている。それに今日はまだ、白蛇に会っていない。きっと来るはずなのだ。それまでは。死ねない。だが、己には一言、倒れたまま言った。
「なあ、俺が死んだら、丁寧に、埋めてくれって、頼んでくれ。白蛇にな」
形だけ頷く真ん中の頭。
いや、彼はまだ死なない。あれに生かされているような気がする。また臭気が強くなった。同時に立ち上がりながら支えにしていた刀を荒々しい呼吸と共に再びふるった。
「…来い!」
くらくらとする身体で、威勢よく叫んだが、餓鬼たちは臆している。先ほどまでの威勢とは全く逆に。逃げ出していった。だがそちらには遮詠と白蛇が大口を開けて待ち構えていた。餓鬼は逃げることもままならず、行き場のない闇を右往左往しているだけであった。それを見て、思った。
まだ、けんかした、ままだった、な。
「あ、白蛇……もう…」
ふらりと仰向けに涛が、倒れた。
当たり前は、いつ来るのか…
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