十五
白蛇は昨夜からずっとここで目をこらしていた。何か動かないか、気配がないかと気もこらしていた。だが一晩中、予想した餓鬼などは現れなくて飽き飽きしてきたところだった。
「出てくるなら出てくるがよい。愚かな鬼よ」
白蛇は呟いたが音はしんとしているだけだった。朝露が、腹や木や草を濡らしていく。濡れる体は少しだけ冷えていく。それと、空腹だ。
リムは先ほど起きて、己のいる洞穴の上の木にとまっていた。別にここにいる理由がないので、こちらへ餓鬼が向かってきたらすぐさま飛んで連れて行くつもりであった。
「あーあ、餓鬼ってどうしてこうなのかしらね」
その言葉は洞穴の中の遮詠にのみ届き、彼の意識を覚ます。
「どうしたもこうしたも、生まれ持った性質だろ?おれ達のように」
少しして穴から出てきた獣の金の目が妖鳥へと向く。それを、姿勢を低くして見下ろすが別に敵意も何も浮かんではいない。ただの様子を見に来ただけであろう。いや、そうだとリムは信じたかった。
「それはそうなんだろうけど、何だかこう、嫌なのよね。こう、気持ち的に」
表現しにくい感覚を伝えると、獣の口が馬鹿にしたように笑った。
「餓鬼が好きだとでも?」
「馬鹿言わないでよ」
本当に、あり得ない話でもあり、途方もなかった。
涛がゆっくりと身体を起こすと、しっとりと冷たい空気が漂っていた。服も少し濡れているが問題はない。だがのどが少しかわくものであった。ここに湧き水などはないであろう。となったら、我慢するしかないだろうか。そこまで行き着いて溜め息をつく。
「どうしたのだ?」
上からの声。見上げると竜の頭の鼻先があった。
「おわっ!……っつつ」
思わず這って後退し、壁に後頭部と背中をしたたか打ち付けてしまう。それを見かねた真ん中の頭が溜め息をつきながら刀の紐をくわえて彼に軽く投げてよこす。左中の頭と代わって右中の頭部が彼の目の前へと向かう。
「それほど驚くほどでもなかろうに」
真ん中の頭の思っていることを代弁したような口調に、涛は思わず牙を剥く。
「驚くっての!いきなり頭の上にでっけぇもんが心の準備なしにあったら、逃げるだろうがよ!」
怒りを向けて叫ぶが、彼には伝わらなかったらしく、はてなと首を傾げた。
「そうなのか?人間は」
ああそうだよと適当に返答した涛は空腹にたえながら、真ん中の頭のよこした刀を拾って立ち上がる。またそれと同時に遮詠が戻ってきた。その姿を左の頭は珍しいなと思った。
「珍しいな、遮詠。自らそちらへと向かうというのは」
涛が左の頭の視線の先を見るが、やはりそこには何も、誰もいないように映る。だが己たちにはその獣が見えている。
「別にいいだろうが。何かおかしいか、己」
いや別に、と右の頭が即答し、それにさらに真意を求めるのも面倒だった遮詠が、久しぶりの竜の名を聞き、覚えようとしている人の子に対して問いかける。
「さて、いつ来るかが分からないが、やるんだな?」
あたりめぇだと涛が鞘に収めたままの刀を右肩で担ぎながら吐き捨てる。この珍しいことが、吉となるか、凶となるか、それはじきに分かるだろう。
そして時間を迎えるのであった。鬼と、人の子と大妖の戦いが。
しばらくして遮詠がどこかへと去った後、涛は口を開かずに湿っぽい中、鞘から抜いた刀の素振りをしていた。一応とのことだったが、真ん中の頭には意味がないことだとつい思ってしまう。だが本人が必要としているならそれでもよかった。
実際には空腹を紛らわせるためにしていたが、集中できなかった。
「…………」
そして、ずっとそのまま二人は待っていた。鬼たちが来る、その時を。
そしてそれは唐突に来た。
「……来たか…」
真ん中の頭が首をもたげて、涛も素振りをやめて、それ以外も外への道を見つめた。そして、そちらより近づいてくる足音。少なくとも複数であることは間違いなかった。
「やっとか。腹へって動けなくなっちまったら、どうしてくれんだ」
少年が数歩、外へと向かい立ち止まる。そして、ぞろぞろと餓鬼の群れが目の前を覆い尽くした。
「貴様ら…何が目的だ…」
左中の頭が低く唸ったが答える者はいない。当然といえば当然か。
「さ、来いよ。友達を消すってんなら」
友達。それに彼を想っている者は入っていなかった。そういいながら、抜刀済みの刀を右手に握り、空をないで、音を鳴らす。
「許さねえぜ」
餓鬼はそれにおびえる様子もなく、ただ目的のために餓えているだけだった。涛は襲ってくるまで、すぐに右手で振れるように刀の切っ先を身体の左側から、後ろ側に向けていた。
「……」
今、蒼目の頭は気づく。少し前の夜に流れてきた臭気と同じものが、流れているような気がした。だが、今はそんな場合ではない。
少しばかりぼーっとしていた白蛇の意識が急に覚めた。昨日からずっとここにいて意識を保っているのも疲れてきたころだった。そして、囲まれている。後ろの崖の上に、その崖に、木の上に、木の下に。
「やっと来たか」
少しでも暇つぶしになろうかと思ったが、十分多すぎるためになぎ払い、楽しめそうだった。だがむこうから向かってくる気配はない。だったら、すぐに反応できるようにして、待つだけであった。
「………」
杉嵩は、大丈夫だろうか。
不意にそんなことが思い浮かんだ。
一、二……
十くらい経ったときだ。餓鬼が森より大妖へ、よたよたと、しかしすばやく駆け出した。それを目視した彼は、
「愚か者が!」
そう一喝して一瞬で尾を飛ばし、それを弾き飛ばす。片目でそれを確認し、嫌な感触が伝わるが、気にしていられなかった。次に反対側、崖の方向から降ってくる。ぐわりと顎を開いて餓鬼の身体に牙を貫かせ、捨てる。直後個々で襲っても無駄だと分かったのか、一気に餓鬼が茂みから、木々から飛び出した。
「餓鬼風情が、恐れぬか」
数で対応させられると少々困るが、餓鬼なので簡単だった。少し程度傷ができるかもしれないが。だがこれ以上がいないとも限らない。
沈黙を白蛇はつらぬき、友がため戦おうと決めた。
友とは、誰だ?
その頃、涛は刀を振っていた。飛んでくる者は払ったり、蹴ったりして壁に叩きつける。そしてその後一瞬のうちに己の頭が飛んできてそれを喰らう。先ほどからずっとそれを繰り返していた。どれほど続けて彼に飛び掛ろうとも即座に反応して斬り捨てられ、蹴飛ばされた。
そして、昨日の朝と同じように、数が減っている気がしない。遮詠から聞いたが、白蛇もリムも敵を減らすことを狙って別の場所にいるはずである。だがこの数はなんだというのであろう。もしかしてこちらに集中しているのでは、と涛の脳裏を嫌な予想がよぎるが、目の前の集中すべきことを目の当たりにし、腕を振るう。
「まだいるのか!」
左の頭がいら立って叫ぶ。短気なのであると少年は初めて知り、耳にこだます。だがそれのおかげで餓鬼が少しだけおじけだしてくれた。だがその合間にもそうでない餓鬼は怖気づくことなく走ったり、飛び掛ったりする。
「まだまだ!」
一応自分にも喝を入れておくために叫ぶ。彼は空腹なのだ。だからさっさと終わらせて食事にありつきたかった。
何のために?生きるため?
「とっとと失せろ!」
涛が斬りそこなった餓鬼が竜へ駆けるが、右の頭が即座に反応して真上から飲み込む。傷こそ受けないが、相手が減らないこと意味がない。まだまだ続くのかと涛が溜息を軽く吐きながら跳んできた餓鬼を斬り、その爪が頬をかすめたとき、向こうの群れが割れていた。道を作るようにして割れ、おとなしくなった。
「なんだ?」
主頭が向かってくる者がいなくなって不審に思うが、それは向こうからやってきた者によって一瞬で消える。
「明下……」
人の子の名前を呟く少年の先に、見知った顔をかくも嬉しそうに歪めながら少年が歩いてきた。その手には、おそらくどこからか、とってきたナイフ。だがその服はまだ寝巻きと裸足だ。
誰だ?
「じゃねえな。てめぇ…」
涛の中で沸々と怒りが沸いてゆく。
「どうしたの?杉嵩」
明下の笑顔を崩さずに歩みながらそう言う少年。少年は刀をかまえたままだが、なぜか手が震える。
「何しやがった!」
杉嵩 涛の眉間に怒りのしわが刻まれる。
「……」
滑空と警戒をしながらリムは微かな涛の声を聞き取った。よほど不満なことでもあったのであろうか。
「あの子供が心配か?霧」
「うるさいわね!」
彼女に問いかけたのはあちらの住民、あの時に逃げ出したものであろう。今は後ろから彼女を追いかけている。リムの方が幾分速いが、あちらは力技であるはずなので簡単には攻められなかった。
「あれを助けたければ勝てばいい話だろ?さっさとすればいいだろ?」
先刻からずっとこのように挑発しているがリムは乗らなかった。こういうときは無視するのが一番であると知っていた。それよりも、冷静にどう攻め落とすかを考える。
しばらくして、リムは何か呟くと同時に右翼を下に傾けて反転し、その黄泉の者を正面に見る。それは不敵に笑う。
鳥のようだが羽毛ではなく白い獣の体毛のあるそれは、滑空しながら骨ばった人の手のような足の爪を出す。
そして何かを叫ぶ。このまま、爪を突進してくる敵を引き裂こうと、足の裏を妖鳥に突き出した。が、それは彼女のいた空をとらえただけであった。それどころか背中から押される。
思わず高い声を上げながら、何が起こったかを理解する前に、体中をいくつもの痛みが襲い、そして腹を強く打つ。おそらくは地面であろう。立ち上がろうとしたが再び背中に力が込められ、這う状態となってしまった。
「あーあ、やっぱ、ばかっていうのは一番楽だわ」
リムが左脚で黄泉の者を強く押さえつけながら、右胸近くをくちばしで突いて血塗れた羽を抜く。やはり、微妙にかすってしまったらしい。それを捨てて足元を見る。
「あんたたち、一体何しに来たのよ?場合によっては今この場で仕方ないけれどやってあげるわよ、あんたの…弔いっていったっけ?あの死んだやつを、いたわるやつ」
あちらの者が今の状況を気にかけずに、リムを見上げて笑い出す。リムは一瞬驚くが狂ったのだろうとでも思い込もうとする。
「そのようなものは不要だ。お前は人間のようなことを言うのだな。面白いな。ああ、面白い」
まだ笑う。リムは力を込めて押さえつけているので、笑うのもむずかしいはずだ。ためしにもっと力を込めると、それは咳き込む。どうやら無理をしているらしい。だが力を緩めるほどリムも慈悲深くはない。
「別にいいじゃない。私が人間みたいだったしてもさ、私は私だし?あんたらみたいなのに笑われると嫌になるわ。黙ってよ」
左脚の指で握ると白い体毛に赤が滲んだ。だが痛みを感じないようにまだ笑い続ける。それを聞きながらこれをどうすべきかなぁ、とリムは呟く。とりあえず馬鹿にされたようなので怒りの意味も込めて全体重を脚に乗せる。と、音を立てて黄泉の身体に穴が空く。
「…はは…」
最後に短くそう笑ってそれは動かなくなった。ぬれた脚を引き抜き、そこから立ち退くと、これもどうすべきかを再び悩むのであった。
これが、当たり前
獣は木々の間を駆けていた。餓鬼は、追いかけてくる者は全て始末した。後はこの厄介なやつだけであった。
「逃げるな、逃げるなぁ!」
人の形をした黄泉の者が追いかけてくる。さすがというべきか、彼の足についてきている。だが遮詠が先に逃げ出したがために少しばかり間がある。
黄泉の者は人の形ではあるが人とは程遠く、創造物に例えるなら獣人であろうか。ところどころ赤黒く染まってはいるが、白っぽい灰の体毛に覆われていることが分かる。それの真っ赤な目は憤怒が渦巻いていた。
「迷惑だ!」
遮詠が苛立たしげにしつこい獣人に叫ぶ。だが足は止めない。別に相手も追ってくる必要はないはずなのだが追ってくる。姿形だけに、本能なのであろうか。
「貴様らが、いたからぁ!俺らはぁ!」
しつこいやつだな、と遮詠は思いながら走り続ける。少し前に空からの羽ばたく大きい音が消え、代わりに枝が折れる音が聞こえたので、リムがこれの仲間を倒したのであろうと察しがついた。白大蛇がどこにいるのかは知らないが、今はまだ大丈夫であろうと確信している。そこまで弱いやつではない。
今追いかけてきているやつは簡単だろうが、それだと退屈だろうと遮詠はそんなことも確信している。退屈なのは嫌いなので、どうしたら楽しめるかを考えている。少なくともこれは餓鬼よりも強く、自分よりも弱い。どれくらいの力が必要かを彼は今考えている。彼は退屈こそするがあまり器用な方ではない。だからこそ考えている。
「あいつは、な…」
きっと器用なのだろう。
呟くと、遮詠は長い距離を使って反転して、獣人を迎え撃ち、勝とうと獣牙をさらけ出す。
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