十三

 ある日、杉嵩は誰かと話していた。見えない誰かとだ。他の人には、それは独り言としか映らない、気味の悪い光景であった。そしてそれでも、関わりを持っていたのは明下と久部だけだった。

 他の者は、からかうか、いじめるか。そうしているうちに、彼は何回も泣いていただろう。そしてその相談相手は、明下と久部と親だ。彼らは優しくはあったが、彼のことは、全部は肯定しなかった。特に独り言の会話は。

 『友達だ』と言い張るときは、全員呆れたものだ。いるはずがないのに、と。

 それでも関わりを持ち続ける二人もいやがらせを受けることはあったが、杉嵩のせいにはしなかった。『友達』だと、言い張った。

 じきに杉嵩は、ある戦争で父親を、疫病で彼の母親を亡くし、しばらく過ぎた頃、明下は久部といるとき、見てしまった。久部が杉嵩を傷つけている者たちと、彼のことを楽しく語り合っていたのだった。

 同意を求められ、頷くと、その次の日、話題となっていた彼はこなくなった。まるで、それを見ていたかのように。だがそこは非常にひらけた場所で、隠れて見える場所はあったが、聞こえるはずなんて、なかった。

 つまり彼は、自分たちには見えない誰か、何者かに、それを聞いたのだとしか、思えなかった。

 次に会ったときは、一年後、とうとう心配になって様子を見に行ったときだった。そのときから彼は人間には、特に明下たちには憎しみを込めて睨むようになった。兵隊しか持ってはいけないはずの、刀を持って。何かを言えばそれを抜くといわんばかりの様子で。

 それは、一年もの長い空白が生んだ、崖だった。

 ごめんなさいと謝りたかった。他はそうするつもりがなくとも。

 自分だけは、違うのだと言いたかった。

 戻ってきてと言いたかった。

 けど遅すぎた。きっかけもなく、そしてだらだらと引き延ばしている。言えずにいる。彼は、一体どんな気持ちなのだろうか。


◇  ◇  ◇


 はっと目を覚ます。嫌な夢だ。ああ、気分が悪い。

 ときどき明下が見る夢。これが杉嵩を忘れさせない原因であった。ならば謝らなければ、誤解を解きたい。けど、どうしたらいいか分からない。そう思って、目が覚める。

 母が夕食を運んできた。教科書を片付けて、夕食にする。


◆  ◆  ◆


 涛が目を覚めますと、なぜか胸騒ぎとでもいうのか、嫌な予感がした。とはいっても、当ても何もないので無視することにした。男はまだ眠っている。昨夜は何かをしていたような気がするが、何をしていたかは知らない。

 とりあえずはまだ暗いが朝食を作ることにする。先日、崖から落ちてきた砂にまみれていたものに着替えて、いつもの通りの煮物にしようと思ったがなんとなく釜を使って調理したくなったのでそれを使った。

 それにしても男の友人の形見はどこへ行ったのであろうか。ないということは遮詠が言っていたように餓鬼が奪ったのだろうが、だったらどこにいる、という疑問が調理中にもあるばかりだった。もっとも餓鬼はそこら中にいるためここだという場所がない。

「いただきます」

 とりあえず考えながら誰に対してでもなく、手の平を合わせて軽くおじぎをする。茶碗をとって飯を腹へかき入れる。

 数分もして食べ終わると、気がつけば起きたときから感じる胸騒ぎが強くなっているような気がした。気のせいだと思いたかったが、おさまらないので、すでに傷のふさがった左手で刀を持って外へと出た。

 陽が昇るのが、やはり冬だということも含め、遅くなったのでまだ暗く、吐いた空気が白くなる。そこそこ厚い服のはずなのだがまだ寒く、体中に冷たい空気が刺さる。それをこらえて、そこらを見てまわることにした。

 皆起きていない。まだそんな時間かと涛は思う。いつも太陽の位置が時間を知る唯一の手がかりなのでそれがなければ時間は分からない。とりあえずはものすごく早いのであろうということだけは分かった。

「あー、なんだろうな、これ。変なことなけりゃいいけど」

 胸の中にあるものをなだめながら、しばらく闇に浮かぶ道を歩いていた。適当に。

 いつの間にか、ここは、明下の家の近くではなかったかと思う。一応様子を見ておこうと考えた。もっとも見えないだろうが。


 あー、と涛が声を漏らした。目の前にはやはり大きい明下の家。彼からしてみれば豪邸であることには違いないだろうが、以前兵器工場の管理人をしていた明下の父がいる明下にとってはこれが彼のいつもの家だ。

 あのときのように唖然と見上げているのは二階の窓より少し上の方。とりあえず、大きいとしか彼には映っていない。あの竜、己くらいはありそうだ。ちなみに彼本人の家はこれの半分くらいである。

 胸騒ぎはおさまらないが、とりあえず明下は無事なのだと分かった。彼らの言っていた餓鬼なら窓を閉めているはずがない。そこまで丁寧なやつは、いるかもしれないが、いない。ほっと一安心して来た道を引き返そうとした。

 だがきびすを返した涛の目の前に餓鬼が数十匹、群れをなして走ってきて、背後からは、屋根から降りてきた。こんなところで現れるのも、隠れていたようなのも、珍しいがそんなことを気にせずに、とりあえず抜刀して鞘を放り投げた。それは扇形に飛んでいき、明下の家の近くに落ちて乾いた音を鳴らす。

「こんなとこで来るんだったら、俺をうらむなよ」

 刀から妖怪だけが感じ取れる異臭が流れるが、餓鬼は気にしている様子はなかった。逃げないことを確認して右手の刃の切っ先を正面の餓鬼へと向ける。特に意味はないが、まだ少し眠っている身体をほぐせると思った。だがあまり効果はなかった。

「人間……め」

 餓鬼の中から複数の低い声。話せるのだと初めて知った涛は、いきなり右回りに得物を振り回し近くにいた餓鬼を切り落とす。その後、それに命中したが、まだ立っている餓鬼へ踏み込んでは斬っていく。

それにしても、餓鬼の身体は軟らかい。人の形をしているが本当は人以下の屈強さだ。だが腕の力だけは強いので、その手にかからないようにと彼は意識する。

そちらへと動いているとその背後から餓鬼の手が涛の背中に伸びる。しかしそれは左へと回った涛には当たらず、倒れた餓鬼の中へと落ちる。

「いくら何でもこれは多すぎだろ…」

 少年は呟く。数が減ったような気がしない。どこかからわいているのであろうが、種類が多くてどれがどこからか、分からない。とりあえずは向かって来る来ない関係なく斬っていく。

 涛が刀を宙に一瞬浮かせ、刃物を左手に持ち替える。得物がないうちにと餓鬼が飛びかかる。そしてその中のうちの一体に刀を投げると命中。それは落ちる、だが彼の手から武器はなくなった。

「人…間…」

 これを期にと再び餓鬼が走り、一斉に飛びかかる。だがそこから姿勢を低くしたまま走り抜け、刀を餓鬼の死体から引き抜く。

「そろそろどっか行けよ」

 言いながら刀を右の逆手に持ち替えて群れを見据える。投げることは本来の使いかたとは異なるが、この戦い方に少し慣れてしまった。それにこちらの方が腕を大きく振らなくてすむ、つまり、あまり疲れない。

 すると餓鬼たちは次々と顔を見合わせ、百鬼夜行のような光景をなして山へとなだれ込んでいった。数秒もすれば全ていなくなり、残るのは彼の切り捨てた餓鬼たちだけだった。

「ったく、なんなんだよ」

 とりあえずは肩の力を抜いて、刀の刃が身体に当たらないように下げ、鞘を取りに行こうとした。が、それは前の建物から聞こえたある名前を呼ぶ声によって阻まれた。

 声のする方、さっき見たときは、開いていなかったはずの窓から日よけの布が舞っており、そこから聞こえたものであった。

「?…」

 今の声はたしか聞き覚えがある、明下の親ではなかっただろうか。とりあえず刀身を鞘におさめてそこの家への小さな鐘を鳴らす。しばらくしてがちゃと音が鳴ると、鍵がはずされて中から、彼の記憶の中よりも少し違う女性が現れる。

「えっと…杉嵩君…よね?それを持ってるってことは」

 それ、のときに視線が刀へと向いた。しばらく会っていないので誰かが分からなかったのであろう、きょとんとした顔である。

「どうしたんだ?なんか散歩してたら声がしたんだけど」

 涛は相手が誰であろうと敬語などは使わない。必要と思わないからだ。扉を完全に押して明下の母は玄関に入るように涛に勧めるが、彼は断った。

「いえ、ちょっとね、幸(ゆき)がいないのよ。窓が開いてたし、どこにも姿が見えないから…何か知ってる?」

 知ってる、ということは、彼女は何も知らない。さっき起きた奇妙なこと、餓鬼の団結だ。群れを作ったりするはずがない。餓鬼はただおのれの飢えをいやすことにしか感心がない、と白蛇からかなり前に習った。先ほど人間とたしかに言っていたし、何か関係がありそうであった。

「いや、なんも。捜してみる」

 とりあえずは、だ。奇妙なことがさきほど起こったからには絶対に関係していると思っての行動だ。

 じゃ、と声をかけて振り返る涛を見て、明下の母は扉を閉めた。とりあえずは昨日、遮詠に頼まれていたように、報告へと参ることにした。刀の紐を握りしめる。

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