白蛇との関係をどうするべきか、と考えながら涛は山の中で山菜を探していた。だがその最中、人間を見つけてしまった。重そうな荷物を背負って、木にもたれながら気を失っている。

 蒼白とした肌は死人を思わせるが、その顔をのぞきこんでみると浅い吐息が聞こえた。まだ、生きていた。

 できれば早く白大蛇のもとへと行って、謝らなければ、と思ったが、この男を放っておくことも、できそうにもなかった。それに、謝れそうな言葉もない。

だがこれだけの荷物とともに、男を運ぶだけの力は少年にはない。男だけでも、涛には必要のないことだったが、男だけでも運ぼうと何も入っていない籠をそこに置く。

 肩に紐をかけて背負っている荷物を下ろさせ、男だけを精一杯の力で持ち上げた。

 左右へよろよろとふらつきながらも男を背負い、運んでいく。とりあえず、自分の家まで。このとき、やはり助ける意味はあるのかという思いがよぎるが、だが足が動き続けていた。半ば無意識に助けたいという思いがあった。

 その途中、声をかけられた。前から跳ねてくるそれは、リムだった。彼女に荷物と籠のことを頼むと、すぐに取ってきた。くちばしに咥えて、宙に浮いているようでおかしく思えたが、気にせずに男を助けるために山を下りていく。

 男を家の中に寝かせ、リムから荷物を受け取り、杉嵩はありがとうと言って、戸を閉めた。

 男は浅い息で、必死に生きていた。


◆  ◆  ◆


男を拾って、数日後、ようやく目を覚ました。そのとき囲炉裏から、余りものを使った汁物のかおりが家いっぱいにただよっていた。

「…?」

 男は体にかけてある薄い毛布をどけて上半身を起こす。見渡すとそこは仕切りのない家の端だった。そして彼の隣には、たくさんの調度品の山。もう使っていないように朽ちかけているたんすや何やら分からない木彫りの人形。それらがこの家の歴史を物語っている。

 今、この家の主はいないようだ。男一人だけ。だが囲炉裏の火は勝手に燃え、何かを煮続けている。これが意味することは、ひとつしかなかった。それでも、それを空腹の彼が食べてもいいという確証はなく、少しだけ逡巡させた。そうしているうちに、数十分が過ぎていく。


 学校のある工業都市とは反対側の町への買い物から帰ってきた涛は、人目につかないように、いつも使っている山道から現れた。買い物といっても祖父母が心配して渡してくれる金を申し訳なく使っていて、山道といっても道なき道だった。その最中、鬼くらいしか出会うことはなかった。白蛇はまだ眠っているのかは知らないが。

 戸を開いて男がいるはずの布団を土間から覗き込んでも、そこには誰もいなかった。代わりに囲炉裏のそばで煮込んでおいた汁物をすすっている人物がいた。あの男だ。一応囲炉裏の隣に箸と器を置いておいたが、予感は的中したらしい。

 男が戸の音に気づいて、口の中のものを飲み込んでこちらを見たが、見られた本人は気にしていないように買ってきたものを決まった位置においていく。それをじっと追っていた男は、涛が止まって囲炉裏のそばに腰掛けたとき、ようやく声を出した。

「いやあ、ごめんね。ちょっと友達と旅をしようかなって思ったんだけど、食べ物がなくなっちゃってね、本当にごめん」

涛はよく生きていられたな、と思う。何も口に入れていないのだ。食事も薬も水も。一応薬を貰っておいたが飲ませ方が分からないためそのままにしておいた。

「別にいいけど。あんた、山の中で倒れてた、よく生きてたな」

 無愛想に言う。男は茶色っぽい瞳を涛に向け、弱々しく笑う。

「自分でもそう思うよ」

 涛はそんな、自分とは関係のないことに耳を貸そうとはしなかった。あまりこういう優しげな人間とは関わりたくないからだ。

 優しければ、理由がある。それは感謝か作戦か。それを、何年も前に思い知った。

「体調が戻るまでなら、ここにいてもいいけど」

 すると、ぱあっと男の顔が明るくなった。

「そうかい?ありがとう」

 涛は鍋のふたを開け、中身をたしかめてまだ自分の分があることを知ると、後ろの家具の山の中にある棚の中から、男が使っている器と同じものをとりだして、汁物を入れる。

 ありがとう、と男は一言言って、涛が帰ってくるまで何杯食べたか知らないが、あまりにも空腹だったようで、何度かおかわりをした。涛はちょうどいい残り物の処理ができてよかったと思う。いつまでも目が覚めないので余ってしまっていた。何度も同じものはさすがに飽きる。

今は正午を過ぎたところなのでそれはまだ暖かい。さきほど涛も食べ終えた。

「君は一人?」

 満腹になったらしい男が器を置いて、涛に笑顔を向けてさりげなく尋ねる。視線はあちこち飛んでいないから、盗みなどをしている人間ではなさそうだと、少年は考え、答える。

「一人だけど、何か」

 男が顔だけでなく身体の向きを正面に正すと優しい目で、箸を握っている、自分と比べて小さな手を見つめる。

「おいしかったよ」

 男は出来る限り独りの少年と話をしようとした。

「きみは何歳?」

 空腹が失せ、器を男のものと重ね、その上に箸も置いてしまいながら、男の質問に答える。

「十六」

 あくまでも、無愛想に答える。

「だったら、中学校へは行ってる?」

 優しげな、嫌いな言葉が、子供の頭の中でぐるぐるまわる。

「……」

 答えずに食器を持って立ち上がる。

「必要なことが学び終わるまで、学校へ行かなければならないって、知ってるよね。特に試験を受けた中学校は。何かあったのかい?」

 涛は無言で、戸の近くにある刀の隣の床にそれらを置く。

「確かに僕の知ってるのではいじめとか、そんなことがあるね。それで自殺する子もいる。悲しいことだよね」

 だが男は笑いながら話し続ける。少年は囲炉裏の傍、男の反対側に片足を立てて座る。少しでも距離を置きたかったための行為だが、逆に顔が見えてしまって辛くなる。

(悲しい…?)

 男はそのまま震える子供に話し続ける。

「でもそれで悪いのはいじめた方だよね。人殺しと同じさ」

 少年は視界の隅で男の表情を見る。優しくて、悲しそうな顔だ。だが、その言葉を、子供は完全に認められなかった。

(違う。違う)

 何が違うのかは本人にも分からなかったが、そう否定する。

「僕だっていじめられたらいやだよ。きっと死にたくなるだろうね。でも、生きていればなんとかなるんじゃないかな…?」

 少年は手元にあった棒で囲炉裏の下の灰をかき回して橙色を出した。弱々しく光っている。

(なんとかなる……?ふざけるなよ)

 男は、そこで話をやめた。男が近くにおいておいた毛布をとって羽織る。それほど寒いのであろうか。

 なんだよ

 と、少年は口を動かしたが言葉にはならなかった。


◇  ◇  ◇


 誰か、認めてくれるだけでも、幸せだった。だが、結局それは虚像に終わってしまった。

 名前は、片方は忘れた。もう片方は、明下という、今でも様子を見に来るやつだ。

 親がいないなら、拠り所は彼らに行った。彼らといることは楽しかった。これが自分だけに見えている者以外の、友達というものなのだなと思っていた。

 ある日、休みの日に裏山へと行った。そこには、刀を向けられている大きい白い蛇がいた。

 ほぼ毎日のように彼のもとへと向かっていた。いつしか家にまでやってきて襲ってくるのではないかと。そしていつの間にかある鬼とも仲良くなった。

 その鬼は人間に興味があり、よく出かけていた。

 その日は一人で帰っていた。それを見計らったのか、その鬼があることを知らせてくれた。

「おまえと一緒にいた……ってやつと、明下ってやつが、……と一緒におまえのこと、話してたぞ」

 そのあと、自分は崖へと行った。そこはけわしくて、高かった。

 下を眺めていると、大きい白い蛇がやってきて、何か言った。うるさいから、跳んだ。

 落ちていく。顔面に風がぶつかって流れていく。緑の木々が最後の風景かと、ぼんやりと思っていた。

 そして、気がついたら暗闇にいた。


◇  ◇  ◇


 目が覚めるまで、何があったのかは知らない。けど、そのときはもう生きていようが死んでいようが、どうでもよかった。

 しばらく、白蛇に会っていないな、と思いながら布団にもぐって、終わりを迎える。明日には、謝れるだろうか。

 それにしても、どうすれば、忘れられるのか、ずっと考えている。だがその中に、友達のものは含まなかった。それがあれば、そちらへと行ってしまうだろう。

 家の中、特に布団の中は安らぐといえば安らぐが、だが忘れることはできない。なぜかあの頃がよりはっきりと鮮明に浮かんでしまう。ならばより苦しくなるだけだ。

 裏山の中、何も襲ってこなければ安らぐが、やはり、なんとなくあのことが思い出されてしまう。死の予感が、特に。

(……痛かったな…)

 先ほどまで思い返していた記憶が、腿に痛みをわずかに与えた。あの白大蛇の寝床から逃げ出したとき、体中に古傷のようなものがあった。今でこそなくなったがあの頃は痛かった。何度もつまずきながら、痛みに耐えながら帰った。

 だがそのとき痛かったのは、傷よりも、他にあった気がしていた。あちこちにある傷口よりも、見ていて痛々しかったが、そんなものはどうでもよかった気がした。

(痛かった…)

 痛かった。だが、何か別のもの。あのとき、飛び降りたときに途切れた記憶。そのとき、自分は何を思っていただろう。明下と誰かが裏切った記憶はあったが、それから、どうして飛び降りたのだろう。白大蛇が話しかけたくらいで、なぜ自分は、

(ああ、そっか)

 ふと思い当たった。そうだった。

 自分は、頼れる存在に『消えられた』。そして『裏切られた』。その『絶望感』。それからくる『死にたい』という気持ち。そして思い当たった場所がそれ以前に見つけた『崖』。

 いざ離れてみたから、やっと分かる。彼が嫌いで、うるさかったのではなく、頼れる誰かがいなくなって、嫌になったからだった。


◇  ◇  ◇


 白蛇は、もうずっと、人間の本質というものを忘れていた。善悪が他人で決まる世界というものを。その世界は侵すつもりはないし、何も言うつもりもない。自ら命を絶つこと、他を劣化呼ばわりしようとも。

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