八
その日は、白蛇に喰われそうになって三日後くらいだったろうか、あの巨大な蛇を探して山の中を、重い刀を持ちながら歩いていた。その頃は山も大きく感じたが、今はそうでもない。自分が大きくなったのだろう。
当時はただ白蛇を探し、やっつけるためだけだったので、白く長い身体を捜していた。しかしいなかった。数時間捜すうちに空腹が来て、持って来た握り飯を食べてまた歩き出した。
すると崖が目の前に現れた。とりあえず切り立っているので右へと、向かったか?多分そちらへと向かうと崖に、自然にできたと思われる洞穴があり、白蛇がいるかもしれないと、そこへと入った。
結構暗かったと思うが、白蛇と対峙したときの恐怖よりかはましだったから、奥へと進んだ。ある程度進んだら話し声が聞こえて、その会話はこんなものだった。
「いつまで眠っているつもりだ?」
「気がすむまでだ」
「気がすむって、いつまで」
「いつかまでだ」
「まあおまえはそんななりだしな。多めに眠らないと疲れるんだよな」
「そういうことだ。で、おまえは何をしに来た?遮詠(しゃえい)」
「単におまえが何してるかなってな。己(つちのと)」
会話しているのは二人。遮詠という楽しそうな白蛇より若干高い声は、ここへ遊びに来たふうで、己という白蛇よりも低くがらがらとした声は、ここでずっと眠っているようだった。
それじゃあな、と遮詠が言い、岩の砕けた砂を、おそらく四つの足で踏みしめる音が聞こえた。すぐに身を隠すように岩壁に身を強く押しつけた。
足音はしだいに大きくなり、冷や汗が流れた。目の前を通り、姿も無いのに小さくなっていった。一瞬立ち止まった気がしないでもなかったが、そんなこと気にしていられなかった。
とりあえず戻ってくる様子もないため奥へと向かうことにした。足音からして残り長くはなさそうだった。
そして左へ曲がり、奥へと行った。
まず暗かった。
あと複数の息遣いが聞こえた。
近づいてみた。
巨大な何かがあった。
ここは広い空間のようだ。
しばらくそこに。
目が慣れてきた。
巨大な何かは、たくさんの頭を持つ、竜。
そのうちの一つの頭が覚醒した。目がかっと開いた。
恐ろしかった。
逃げ出した。
◇ ◇ ◇
我ながら、ずいぶんと臆病だったな、と思い返す。洞窟というものは、真っ暗で、そこにひそむ何かを想像してしまう。今はどんなものがいただろうかと改めて考えている。
涛はいつか入った洞窟の中にいた者を確かめるためにここに来ていた。白大蛇から行くな、と咎められていたが、やはり、気になった。それに別にかまわないだろう。
だが行くな、という気持ちは分からないでもない。たしかに怖かった。巨大な赤い眼がぎょろりと開いて、こちらを見つめたとき、一瞬だが身体が凍った。気がつけば逃げ出してもいた。
だが、今は好奇心を抑えられず、そして行かなければならない気がして、おそるおそる暗闇へと足を踏み入れた。
岩に包まれた場所の最奥で、そこにいる巨大な生物は侵入者を感じ取った。木の臭いがしているが、かすかに人間の臭いもする。人間が来るのも久しぶりだな、と思いながらどのようにして追い返そうかと考えた。
人間はよくここへと来ていたが、最近は姿を現さない。だから人間の臭いを忘れるところだった。
「…人間…か」
何やら思い出すように呟き、大牙という不揃いの歯がのぞく。それはところどころ黒く汚れていて、もう取れなくなってしまっている。
とっとっ、と小さな足音が近づき、大きくなる。できるだけ小さくしようという心が伝わってくる。真ん中の竜の蒼い目がわらった。
姿を現したのは、小さな子供。自分たちと比べ、非常に小さい。竜が全員、ぎらりと牙をのぞかせ笑った。
「子供…か。こんなところに何か用か?」
涛は見上げた。五つの首と頭を持ち、笑い、揺れている竜を。
「…でけぇ…」
唖然と見上げた子供。大蛇や大鷹よりも大きい者がいるのだと、初めて知った。見つめてくる視線を返しながら、黙る竜。
(…見える、か。面白い)
珍しい、と思った。人間は自分のことが見えないはずだ。だから、平然と奥へと行き、引き込まれる。
だが、見られているのなら、説得もできる。だが、彼はそれほど器用ではなく、もう一度、尋ねる。
「おまえは、ここに用があるのか?」
涛は何でもなさそうに、答えた。
「んー……えっと、その、ここに何があるのかなっと、思って」
うそ、ではない。この人間の子供はずいぶんと素直に見え、だから顔は本当に、なんとなくといった風情だ。だが、少しばかりの影を、一番右の頭が見つけた。
「おまえは…いつかの子供…か?」
一番鮮明な記憶。数年前に眠っていたとき、気配に起こされた。近づいてくるにつれて警戒を強め、目の前に来たときに何者かと目を開くと、すぐに逃げ出された記憶がある。たしか、このような子供だった。もっと小さかったと思ったが。
「ん?覚えてる?」
首をかしげる涛は、申し訳なさそうな顔で、右手の刀を揺らした。
「あれ以来、人間が来ていなかった、当然だ」
真ん中の頭が静かに言うと、涛もなんと言ったらいいか思いつかず、静寂が包む。
好奇心で入ったとはいえ、涛は恐れを抱き続けている。知っている者たち以上に大きいことより、その他のものがあるのだった。一言でいうなら、気迫だろう。
あのときは初め、牙を向けてきたが今はそうでもない。その必要も互いに、すでにない。多分、それだ。忘れていたのだ。今は、彼はどうしているのだろうか。
しびれを切らして涛が、ようやく言葉を見つける。
「何でこんなところにいんだよ?」
彼らは、自由だ。他の目を気にせずに生きている。だから何の規制も受けずに、どこにでもいる。だが彼は、あれ以来とか言っていた。つまり、ここにずっといる。
「……聞きたいのか?」
ほんの数回響いた声よりも数段低く響く怒りのような声。闇に何かが広がり、そして涛の心をさらに恐怖に染めていく。だが、頷いた。
「物好きな子供だな?…人間はそうやって何かを知りたがる…」
左から二番目の頭が呟き、無視して真ん中の頭が言い始める。
「そうか…ここから先は、おまえらのいう『地獄』と『天国』の入り口だ。行きたいというのなら止めはしないが、代わりに命を失え。そうすれば通れる。嫌なら、それ以上は、詮索はしないことだ。」
たんたんとうなるような言い方は、ひんやりと冷たい冬の空気をさらに凍らせていった。涛はほんの数秒で、息苦しくなっていった。
「ここへと来るのは、よほどの物好きだろうな。もしくは、おまえなら人間が嫌い、とかか」
答えられなかった。のどが凍りついているし、好きだ、嫌いだ、などと答えられるはずがない。それを見つめて左の頭が首を、ぬう、と彼の目の前へと突き出し、見つめる。
「好きというでもなさそうだな?だが嫌いでもない…いや、嫌えない、か?」
観察するような赤い目と、笑うような声に苛立ちながら、動かない体で、見つめてくる赤い目を見つめ返す。
――視線を逸らすな。言いたいことも伝わらん。
あれはこう言っていた。だがやる前に、逸らしてはいけない、と全身が警告している。
――ある人間に聞いたな。人は目に全てが浮かぶ、とな。
「怯えているのか?子供」
その頭は笑みをはっきりと浮かばせた。残忍な思いのようなものがこみ上げている。少し前に見えた大牙、あれは涛の体など、容易く貫くだろう。
「怖いか…そうか。おまえらは何も知らないはずなのにな…」
右から二番目の頭が寂しげに呟いたが、涛には雑音としか残らない。冷たい汗が頬を伝う。
そして、目の前の頭の、大口が嫌な音を立てて開かれた。
(嘘だろ…!)
彼は心でそう叫びながら、近づく口腔を待っていた。
(逃げろ!逃げろ!逃げろって!)
一番大きな牙の側面が、肌を撫でた。
(早く!早く!)
叱咤しながら、視線を上げた。
真ん中の頭が、闇に隠れていた。高く、蒼く、高くに。
ぼんやりとした意識がある。すると身も凍った声が互いに話し合っていた。
「やりすぎたか?」
「さあな…だが、そういうことだろう?」
「こんなことになるとは、思わなかったな」
「まだ生きているだけでいいだろう」
「しかし、頼まれたが、この後どうするかを聞いていないな」
そこで一旦、静かになる。そして意識を冴えてくる。もう少し話を聞いてみようとする。
「腹は減ってないしな」
「外に投げては死ぬだろうな?」
「人間だから、な」
「放っておけばすぐに逃げるのではないか?」
「何のために、白大蛇が頼んだのか」
そこで、涛は起き上がった。だが竜は声を上げず、知っていたようにただ、ゆらゆら揺れる。
「やはり釣れたな。あいつが頼むからこうなのだとは思ったが…」
ふと口を開かずに言葉をつむぐ様は、どうやって出しているのだろうと思ったが、妖怪はみなそうなのだろうと決め付ける。だがそれどころではなかった。
「白蛇が頼んだって、どういうことだよ!」
さきほどまでの気迫が消失していることをいいことに、涛がそれをだす。だが彼らは物語るように述べ始める。
「だいぶ前にな、おれらが見える人間の子供が来たらおどしてやってくれ、と頼まれた。理由は先ほど言った、『天国』『地獄』のことだからだろうが。おれらが見えているところで、もう逃げ出すと思ったんだが、な…」
涛から見て一番右の頭がうなだれた。
「肝が据わっている、と人間は言うのか。おまえはただのばかではなさそうだし、気に留める必要もないだろう。人間に怨みがないというわけではないが…まあ気にするな」
左から二番目の頭が、楽しそうに笑う。
「言ったことは全て、事実だ。嘘は苦手だからな。疑うな、子ども」
真ん中の頭がぐっと目前に近づいた。だがそんなことよりも、涛は白蛇のことでまた悩んでいた。なぜここへは来させなかったのだろう。先日も絶対に入れないように体を張っていた。それはなぜだろうか。彼らの言った『天国』とか、そういうものがあっても、自分は気にしないのに、と。
「子供?聞いているのか?」
目の前にいるにも関わらず反応を見せてくれない子ども。話を聞いていないようだったので、勢いよく口を、限界までがばりと開いてみせると、ようやく驚いてくれた。
「……何もないなら、帰るがいい」
びくびくしている子どももまた、まだ可愛げがあった。
笑い声が止んでから、また白蛇は眠る。眠くはない。だがやることがない、話すことも思いつかない、謝りの言葉もない、だから眠る。だがその最中、考えることは止めない。
(なぜあいつは、我を…)
人間の作った刀で斬れないはずの鱗が、斬れたことに疑問を持つことはない。あれはきっと、そういう刀だから。だが問題は少年だ。人間と接したことのない、死に際の観察しかしたことのない彼には、理解しがたかった。
なぜ、怒っていたのだろうか、ただ、あいつへの誤解が減れば、と。
なぜ、人間の子供を助けたのか、あれは、あいつを軽く言っていた。
なぜ、あれ以上向かってこなかったのか、来れば、自分なぞ容易いだろう。
なぜ、あれ以来、来ないのだろう、この思いをどうにかしたいのに。
疑問は尽きず、気づかない思いがつのっていく。それを見つめられない白蛇は疑問を増やしていく。だがそれもまた、初めに戻り、繰り返すこととなる。
果てしないもの。それは延々と思えそうなほど長く続く。
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