涛はそれから、何をするでもなく家の中にいた。気づけば朝になったというのにお腹がすかない。よく眠れなかったし、出かける気もなかった。たとえ出かけたとしてもどこに行けばいいやら。

 どうすればいいのか、分からなかった。白蛇といたら、安らいだ。落ち着いた。ずっと一緒にいたいと思った。あの頃が忘れられるのかと思った。

 けど結局、忘れられないし、人間ではない彼を傷つけてしまった。やはり、何も変わらないという絶望感が支配している。

 昔、白蛇は涛を傷つけた。それは彼が、邪魔だと思ったからだろう。だがもうそんなものでは、なかった。はずだった。

 昨日、涛は白蛇を傷つけた。それは彼が、怒ってやったからだろう。だがそれは、なぜであろう。

 ずっと囲炉裏の前にいると、もうじき昼だった。もう少し過ぎると、戸を叩く音があった。だるそうに立ち上がって、戸を開くと、そこに昨日見た子供の一人と、その両親がそこにいた。あいさつもせずに三人を見つめる。

 その両親が白蛇を怒らせた発端だということは、誰一人として知らない。

「昨日、遊びに行ったこの子を、倒れる木から助けてくれたって聞いて、少しだけ、お礼を言おうと思ったの」

 返事をする元気のない涛はただ、そうか、とした思わなかった。

「ちがうよ、木がたおれて、音がしたの。それからたすけてくれたの」

 自分の言ったことと違う、と子供は言い直しを求めて母親を見上げて、服を引っ張る。

「何もないのに音がするはずないだろ?きっと鳥さんがたくさんいたんだろ。それで鳥さんがたくさんおんなじ木にいて、木が倒れちゃったんだろ。鳥さんがおまえたちについていったんだ」

 父親は笑顔で見下ろしながら、子供を説得する。

「とにかく、ありがとう」

 母親はにっこりと笑って言った。

「けど、病気はうつさないでね」

 だがすぐにうって変わっての声音となる。涛にとって、そのまま立ち去っていく三つの影が、憎らしく思えた。なぜ責められないといけないのか、助けたというのに、恩を仇に変えなければならないのか、訳が分からなかった。そんなことを知らない親子はもう、見えなくなってしまっていた。

「白蛇…」

 友達の名前を呟くだけで、少しだけ怒りは引いていく。彼はこんな気持ちだったのだろうか。

 見えなくなった怒りの対象を、今見つけ出して、白蛇と同じことをしたかった。納まらぬ、これをどうなだめたらいいものか、そんなことさえ分からない。

(この…やろう)

 どうすれば、いい。

 涛が扉を、音を立てて閉め、片付けていない布団に寝転がった。また少しだけ怒りが引いていき、落ち着いていく。そのまま数時間、そうしないと衝動が襲ってきそうだったからだ。

「ばかやろう、か…」

 大の字に寝た。白蛇を斬った後の、自分で言った言葉を思い出した。自分もばかやろうだ。自分のことをさげすむ人を、なぜ助けたのか。こうして、いいことなんて何もないのに。


 結局、人間なんて


 涛は腹の底から笑いたくなって、里の見える崖へと向かった。だがその道中、白蛇への言葉は見つからない。そして崖の上で笑い始めた。


 急に聞こえだした笑い声を何事かと聞いていたリムは、それが涛であることに気づくのは少し時間がかかった。だが謎の笑いを気にかけることはなかった。

 この声が、白蛇にも聞こえているなら、彼はどうするのだろうか。

 その樹の下で、妖怪の獣が眠っていた。少しばかり身体が大きく、柔らかく白っぽい、灰白色といわれる色の毛並みと、黄金に輝く目はいかにも可愛らしくも思えてしまうが、その目は生まれつきの鋭い眼光を持っているためそのようなものは欠片もない。だがその敵意も、眠っているので今は隠れている。

 獣はその目を開いた。声がする。不気味に木霊する笑い声だ。いつか聞いたことのある、声。そこまで思うと、また目を閉じる。尻尾がふわりと揺れた。獣の存在に気づいているのはリムだけであった。だが何もないのなら話す必要なんてない。


 白蛇は目を覚ました。穴の奥の暗闇にまで木霊する笑い声だ。狂気じみていた。

 その笑い声を聞いているうちに、声の主の柔らかな笑い声を思い出した。自分とも仲間とも違う、からからとした笑い声を。とても楽しかった。明日が来ることが楽しみだった。

 だがこの傷は、それのせいでできた。もうすぐ消えるだろうが。どうしたら、よいのだろうか。少年と大蛇は同じことを考えていた。


 我が、悪かったのか?我が、か?


 いつも最善のことをしてきたと、信じている。生きるために、鬼を何回も口にしたことがある。仕方ないことだと、割り切った。

 だが、あの子供を喰おうとしたとき、割り切れなかった。


 涛は疲れて、笑うのをやめた。やることがなかったが、気になることを見つけた。白蛇が塞いでいた下の洞窟だ。あそこには行ったことがあるが、詳しいことは知らない。

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