白蛇が目を覚ました。やはり暗い穴の中。身をよじらせて穴から這い出る。

 何度見ても、あの夢は恐ろしくなく、心地よく、とても好きだ。白蛇自身、夢の意味は分からないが、あれが無ければ、今の自分はないと知っていた。だが涛の崖から飛び降りた理由は知らなかった。『どうして』という言葉の意味も。

 あの後、飲んでしまわないか不安になりながらもくわえて帰った。かなりの時間を費やして目覚めたが、すぐに逃げてしまった。後を追おうとしたが、やめた。いずれまた会えるだろうと思ったから、それまでのように。

 それからは楽しい毎日があった。涛とも親しくなっていき、今のようになったり、教えあったり。それ以来、あの泣いていた顔も見ていない。だからこそ、そこには触れなかった。

 白蛇は考えた。寝なおすのも億劫だ。じきに涛も来るだろうと、そこで体を巻いて、待つことにした。

 何が、あの子供にあったのか、知るものは、ほんの数えられる者しかいない。


「へー、あんたばかね」

 リムが涛の話を聞いた後、ためらいもなく言い、また人間のように肩を落とした。

「あんたね、何があったか知らないけど自分から死ぬなんて馬鹿しないの」

 どこかの親のように、言い聞かせるような物言いは、まさしく親が子を見るようだった。

「いい?あんたらみたいなおめでたいやつらがいるから私たち苦労してるのよ?仲間が殺されたりさ、住処奪われたりさ。別に食べるためならいいわよ。けどあんたらは捨てるわ放置するわ、それなのにさらに住処を壊すし。あー、ばからしい。自分たちは特別だとでも思ってんの?そんなこと、やってんじゃないの」

 涛は少しずつ怒鳴り声になっていくリムの声をじっと聞き入る。怒気が増すととともに後頭部の羽が逆立っていくように見える。本物の野生の鷹のようだ。実際そうなのだが。

「そんなことしてんだったら思ったままに生きればいいでしょ?」

 最後に、言い聞かせるように言った。これにより、何が変わるのか、まだ誰も知るはずがない。リムはただ、思うことを言った。

 答えることのできない涛。うつむきながら自分は馬鹿なのか、いけないことをしてしまったのか、という自問の考えが渦巻き始める。やがてそれは落ち着いたリムに見透かされる。

(まずいこと言っちゃった?)

 リムは、悪気はなくとも、責任感が強い。とはいってもそれは仲間に対してだけで、人間に対してはそう強くは責任を持つ気はない。ある意味仕返し、といえた。

 リムは羽ばたいた。翼から巻き起こる風がなくなったときに、涛は刀を握り締めてふらりと立ち上がり、山へと入った。子供が外に出てからまだ三十分も経っていなかった。


 やったらいけねえこと、しちまったかな


 気がつけば、山を見渡せる崖へと着いていた。崖上で草のない場所を見つけて、大の字に寝転がった。刀が手の先で音をたて落ちる。

澄みわたる空が、気持ちいい風を吹かしている。ここへと来ればリムからもらった考え事の残りと、胸に残る明下の言葉を飛ばしてくれると思ったが、そんなことは一切なかった。

息を吸い込むと、まだ冷たい空気に体を内側から冷めさせられる。

ここは崖。昨日の崖とはほど遠くはなれた場所にある、草木の少ない切り立った崖だ。ある意味、思い出の場所である。一人だけの、悲しいもの。

視界は二つの世界に分かれた、緑色に光の粒がある場所と、澄み切った群青色の場所。この光景は、眩しいが、少しずつ胸中の思いを、全て静めていく。

 いつも通りの服は分厚い布を縫い合わせただけの簡素なもの。しかし大きめに作ってあるので袖などから冷気が侵入してくる。だが、あまり気にならなかった。

 何をするでもなくそのままでいると、がさりという音に次いで、いつもの声が聞こえた。

「ここにいたか」

 白蛇は草を腹で潰しながら涛の頭の先へやってくると、体を巻き、彼を見下ろした。

「また死のうなどと考えるなよ」

 その気遣いに軽く笑うと、世界は三つに分かれた。さっきまでの世界にくすんだ白が加わった。

「ぼんやり、考えてた」

 力なく笑いながら言うと、妖怪が理由を言い当てる。

「明下に何か言われたか…」

「半分あたり」

 上半身を起こして、白蛇を正面に見るが少し顔を伏せていた。

「他のやつらがさ、俺のことを病気って言ってるって聞いた。友達、なのにな」

 白蛇は涛を見つめる。

「友達って、人間じゃねえと駄目なのかな…」

 白蛇は、見たことがあった。昔、犬を飼っていた人間が、それのことを友達と言い張っていたところを。『友達』というのは何か特別なのかと考えたこともある。

「…人間の友達は人間。そんな決まりはあるのか?」

 少年はさらに目を伏せて首を振った。白蛇に顔を見せぬように、動かなくなった。答える気もないということなのか、と思いながら白蛇は続ける。

「ならばそのようなこと、気にする必要もなかろう?人間はなぜに周囲の目を気にするのだ?分からぬ」

 妖怪たちには、分からなかった。人間という存在が。周囲を気にする、傷つける、奪う、なのに平気に続ける、目の前の子供の仲間が。

「生きるだけではあきたらず、それ以外さえも、なぜ全てを得ようとするのだ?」

「んなこと、知るかよ」

 同じ人間である涛にも、そんなことは分からない。勝手に国の人間がそう考える、侵略。だが防衛と言い張る、天上人がしようとしていることだ。

「あと…なぜ支配したがる。涛、おまえは支配されているな?」

「誰に」

 そのまま力なく答えるだけであった。


 支配なんて、されているはずがないと


白蛇が舌を出した。

「それは、我が教えていいものではない。自分で見つけることだ」

 言わずに、自分で気づくべきだとこのとき、伝えたかった。

「なんだよ、もったいぶんなよ。教えてくれよ」

 苛立ちのつのる言葉。だがそれは相変わらず、力がなかった。

「…教えても、おまえは納得するはずがなかろう」

 白蛇の思ったことは、伝わらなかったようだ。怒らせてあの刃を受けるのも怖いので、彼はそこから立ち退いた。

 一人残された涛は、そのまま動かずに陽が天高く昇るまで待っていた。誰もいない時間はやはり、気持ちがいい。支配なぞされていないはずの心がさらに解放される。ゆっくりとしながら彼は、白蛇の言っていたことをじっくりと考えてみた。

 白蛇の言葉と、リムの言葉も思い出す。


 白蛇はその後、反対側の、下里を見渡せる崖で人間の様子をうかがっていた。山に挟まれた、浅い谷のような里の両端へ伸びている細い道は、人間から妖怪まで何でも通っていく。今は昼間で誰もいないが。

 崖に一番近い家が涛の家だ。その周囲には人気はなく、代わりに山のすそあたりの田畑に人々はいる。その中で大人は談笑して、子どもも手伝いながら遊んでいる。

(人間とはよく分からんな…)

 親と子でなぜ役割を決めるのだろう。なんら変わらない人間であるだけだろう。なのに分けている。たとえば性別、歳、大人子ども、黒い服を着て威張っている者、それに頭を下げる者、あと、家が簡素なものと、妙に高いもの。自分たちはそんなものは、関係ない。家なんてものも、住処はあれども、ない。

 この村で唯一、他と比べて非常に高く家がある。あれが明下の家だ。まだ真新しい。とはいってもずっとあそこにある。ただ新しく塗装をしただけで古いのには変わりないのが現実だ。

 蛇は生まれても、親というものをよく知らない。長らく会っていない友はそうでもないだろうが、だから上下関係というものはよく分からない。

 そのままながめていると、数人の子どもが、親らしい大人が頷くのを見て、こちらの山へと駆け出し、首を伸ばして見てみると入ってきた。白蛇は久しぶりに涛以外の人間でもからかってやろう、と背後の森へと戻り始めた。


 白蛇と外見に似合わず、目と耳はいい。だが鼻と、臭いを感じる以外の舌の機能は一切なかった。なので動かずに耳を澄ましていると大体の音は聞こえた。今は、例の子どもだろう軽い足音、金属音と共に鳴る涛のものであろう足音、あと木々や土を踏み荒らす鬼のもの。それ以外で大きな足音は、ない。

 急斜面を這って下りていくと三種類の子どもの足音が近づいてくる。三人くらいいれば、たしかに誰かが気づけば危険は少ないだろう。見えればの話だが。

 途中で動きを止め、待つと予想通り、子どもらが歩いてくる。三人だ。それぞれ、まだまだ幼少で、涛の身長の六割あるかないかだ。

 目の前の枝を折ってやろう、と驚く顔を期待して太い枝を軽く咥える。自重で折ってもよかったが、面倒だった。顎に力を込め、折ろうとしたとき、

「なーなー、あの兄ちゃんに近づいたらだめなんだろー」

 上を見上げている子どもの一人が言った。白蛇が止まった。

「母さんに言われたね、病気がうつっちゃうからって」

 先陣を切って道を作っている子どもが同意した。白蛇は枝に牙を立てた。

「どんな病気なんだろ、でもさ、ここにいつも来てるなら、きっとうつっちゃうよね」

 最後尾で坂の下を気にしながら歩いている子どもが自分らの身を心配している。白蛇は牙を立てるのをやめた。この子どもたちには必要ないだろうと思うゆえ。

「さあ?でも怒られたくないよね」

 何も知らない割には、偉そうなことを喋る子どもだ、と白蛇は枝から幹へと標的を変え、

「会ったら母さんのところまでに――」

 全力の力で目の前の木に胸をぶつけ、へし折った。

「うわぁぁ!」

ばきばきと音を立てながら力なく倒れ、子どもたちが慌てて逃げ出す。木が重く響く音と共に倒れきった後も、白蛇の隣を通り抜け、より深みへと走っていく。それを、咥えたときに入れてしまった木屑をはきながら大蛇は牙を剥いて追いかけだした。

子どもたちは見えない、がさりがさりと追いかけてくる、無用心な白蛇の腹ばいの音から逃げていた。

(病…だと?何も知らぬやつに……)

 杉嵩涛という人間を語らせたくなかった。何も力も妖怪のことも知らない、そして自分から退屈な無の日々を奪ってくれた杉嵩涛への言葉は、彼にとって怒らせる力が十分にあった。

 理由は知らないが、あの出来事を知らない者達に、彼のことを言わせる理由はない。全てを知ったような顔で。これは涛と戯れるときに使う怒りではなく、負の怒り。

 白蛇の大きさを考えればすぐに子どもに追いつけたのだが、その大きさがあだとなって木々に邪魔される。だから距離が縮んではいるが、あまりそうは見えない。

「人間…!」

 聞こえぬ声を出しながら白蛇は右へ左へと、音から逃げ惑う子どもを追う。どれほど追い回しても納まるどころか、憎らしさがつのっていく。あの時、涛に言った言葉と同じものが聞こえた。

『自らが貧弱だといって泣くか!全て喰らい尽くしながらそれでも恐れるか!人間どもめが!』

 あのときとある意味似ている。あのとき白蛇のぶつけたのは苛立ちと怒りだ。四人の子どもが抱いているのは恐怖だ。似ていた。

 だが似ているだけであって、逃げ惑う三人と涛は違った。しばらくすれば自分を受け入れた涛とは違った。

 それと、怒りの意味。

 あの言葉に加え、もう一言、ある。

『貴様らに涛の何がわかる!』

 という激情だ。言っても聞こえないだろうと無意識のうちにそれを消して、何も考えずに追い続けた。

 えさを求め、あぎとを開き続ける蛇と、逃げ惑う、兎のように。

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