いつも変わらない日常にはいらいらする。いや、もはや何も感じていなかった。

起きて、朝日を浴びて、軽く目が覚めたら、腹が減れば鬼やら何やらを喰い、そうでもなければ何もしない。だから、眠るだけだった。

退屈なこと、この上なかった。


あるとき目が覚めると、外から流れ入ってくる空気の味が違った。昨日は花の味がしていたが、冷たい土の味だ。だが、眠くて、また眠ってしまう。

何度もそれを繰り返しているうちに、あるとき人間の鳴き声が聞こえた。眠りたがっている体に邪魔だと思いながら、ずっと我慢して待ったが止む気配はなかった。仕方なく喰っておとなしくさせようと穴から出た。

そこには予想通り、人間の子どもがいた。今と全く変わらない、いや当時の方が恐怖と無邪気さがあった、水の浮かぶ目で泣いていた。何があったか知らないが、その子供だけのようだった。

 じりじりと近づいていくと、腹の下で崩れ落ちる石の音に気づいたのか、ぎくりとしてこちらを振り返る。そして涙がより溜まり流れる。その子どもは、おかしかった。

見えているはずがないと距離を縮めれば縮めるほど、子どもの涙は溜まり、泣き声と共に流れていく。ある程度近づいて、しばらく待つと慣れたようで、だがこちらを警戒しながら見つめてきていた。

まさか、ありえないと思いながら、警戒しながら首を動かして様子をうかがってみると、視線を逸らずにじっと見つめてきた。ぐるりと一周しても逸らさない。ためしに、思いっきり、重い口を開いた。

すると、火がついた。あたりをきりさく音は今でも忘れられない、頭と耳を貫く声。目に力を込めて閉じ、すきまから涙を顎に伝わらせていく。口を限界まで開いて、喉からの絶叫だ。

一瞬驚きながらどうすればいいか、悩んだ。人間が赤子にする、あやす、というやり方は知らない。放っておこうか、だがきっと鬼につかまるだろう。

さりげなく子どもを心配している自分にばからしく思いながらも、久しぶりの、自分たちを認めてくれる者であることを願った。

そのまま、しばらくすると泣き声が止み、同時に疑問が浮かんだ。このような子どもがなぜ、ここにいるのかという。

「子ども」

 声をかけるが、誰の声が分からない様子だった。ふと子どもの赤い液体の流れる膝に目が止まる。血だ。転んで擦りむいたのだろうか。周囲にはごつごつとした石がなぜか大量に敷き詰められている。たしかずっと前に、もっと小さな子どもが同じようになって、わんわんと泣いて、動かなかったところを見たことがある。となると、動けないのであろうか。

 そう考えていると体を何かが軽く押した。そのままの軽さが伝わってくる。見ると子どもが膝を動かさないように背中を自分に預けていた。落ち着いていた。

 つまりは、この子どもには自分たちが見えており、認めている。

 思わず唖然とする。このような子どもが自分に平気で接しているのだから。いや、待て、さきほど泣いたよな?口を開けたら。……怖かったのか?怖いものにもたれるのか?我に?普通動けないならそのまま動かないだろう。

 諦めてこの子どもを近くの人里に帰すことにした。まずは場所を聞きたかった。だが、

「おい」

 先ほどと同じように言ったつもりだったが、怒気でも感じられたのか声をかけた途端、また先ほどと寸分違わぬ声で泣き出した。これでは何もできない。できること、できること…。

 どうしようもないので流れている血を、舌で傷を避けるように舐め取る。久しぶりの血の味だ。あまりうまいとは思えない味だが、この際仕方が無い。

 泣きやんだ子どもは、次は泣かなかった。不快ではなかったらしい。そして少しずつ傷口に舌を近づけていった。舌が傷口を滑る度、子どもはびくっと震えるが、あまり痛みはなかったらしく、泣き出さない。ずいぶんと度胸がある子どもだな。

 傷の上を三回も舐めとれば血は止まった。しかし子どもは歩き出そうとしなかった。足が動かないのだろうか。だがこれ以外に外傷は見当たらないとなると、中だろうか。だったら、何もできない。

 他にできることといったら、餓鬼どもからこれを守って人間を待つか、守りながらこいつの住処に帰してやることくらいか、という考えが浮かぶ。

 子どもは思案に悩む無表情な自分の横顔を、興味深そうに見上げていた。さっきまでの泣き顔が嘘のようだったが、実際には張り詰めている顔であった。自分が襲われないための、子どもなりの方法なのかもしれない。だがたとえ逃げ出しても簡単に追いつける。だからそっぽを向いて、気にしていないふりをする。

「子ども、我の声が聞こえるなら答えろ。名はなんという」

 片目だけの視線を子供に投じると子どもは身体を震わせ、視線をはずすまいと睨んでくる。言葉を聞いていないようだった。

「子ども、聞いているのか。名はなんという」

 苛立たしげに言っても、子どもは答えなかった。つまりは聞こえていないのだろうとあきらめ、僅かに持ち上げていた頭を地面に下ろして考えた。だったらもう、待つしかなかった。

 それから時間が経って、子どもの震えがおさまってきた。それはそれでいいと自分は、他の人間が来ないかを、耳を澄まして探るが来る気配はなかった。

「………たか…う」

 子どもが何かを呟いた。聴覚がいくらよくても聞き取れないほど小さな声だ。

「何か言ったか」

 正面に子どもが見えるように頭を動かす。子どもは身体にもたれかかったままうつむいている。傷はすでに黒く固まり始めていた。

「す…ぎた……か……とう」

 再び子どもが言った。すぎた かとう?…で、いいのか、こいつの名前は。

「すぎた、か?」

 首を振った。六つの字から考えられる名前を探すため、視線を宙に泳がせる。

 すぎたかとう…すぎたかとう…?…すぎたか とう、か?

「すぎたか、とう、か?」

 そのまま小さく、こくんと子どもが頷く。人間の文字に当てはめるとどうなるかは知らないが、会話をするくらいなら問題はなかった。

「すぎたか、おまえ、歩けるか?」

 できれば聞きながら、表情をうかがいたかったが自分の目線はそこまで低くない。だが頭を子どもの近くまで持っていくことにした。

「……」

 息遣いか聞こえる。小さい、落ち着いたものだった。微かに頭を横に振った。歩けないのか。

「……おまえはさっさと家へと帰りたいか?帰りたいのならば送っていこう。嫌ならばここにいればよい。我は迷惑だがな」

 しばらくの沈黙。その間もすぎたかは動かない。その間動かないようにした。そういえばまだ身体がねぐらにある。それをそこから引きずり出しながらずっとそのままだ。

 じきに子どもは大蛇の身体に囲まれながら眠ってしまった。さすがにもたれられているので動けるはずがなかった。

「この子ども……」

 苛立ちを隠せずに思わず呟いた。もう喰ってしまってもいいだろうか。というよりもなぜ自分が人間の子守りをしているのだろうか、と今更思う。喰ってしまえば済む話だ。ならもう別にいいではないか、苦しませずに。今なら。

「…人の子、許せ」

 頭を持ち上げ、頭から飲み込んでやろうと口を開く。少し前も開いたが、ずいぶんと、さらに重く感じる。ざらざらとした暖かい皮膚が感じられる。こういうのは昔から大嫌いだった。少しばかり気が引けてくるのだ。それにまだ生きている物の温もりを感じるのは嫌いであり、余計に気が引けた。

 ふと、舌にざらりとした、熱を他より持たないものが感じられた。これの傷がほぼ完全に固まったのだろう。

「……餓鬼に喰われないことだけでも、ありがたく思え」

 言っても分からないだろうが、餓鬼はただ単に味を楽しみ、飢えを満たすだけで他は特に何も思っていないのだ。

 自分たちと人間は不可視で互いに受け入れられない存在。なら、こういうのは消しておくべきかもしれない。

 少しずつ小さな身体が我の蛇の口に隠れていく。そして視界から小さな身体が消え、鋭い歯が細いどこかに食い込んだ。そこに血溜まりができる。途端、子どもがはっと顔を上げた。

 泣いた。

「この!」

ひとおもいに、顎に力を入れて飲み込めばよかったが、泣き声がやかましかった。それに堪えられず、頭を持ち上げ口を閉じる。

ああうるさい。これだから人間の子どもというのは…ならば早く帰ればよいものを…!

「すぎたか!」

 上から思い切り怒鳴る。それにびくりと一瞬震え、泣きじゃくりながらこちらを見上げる。

「泣くな!人間が!自らが貧弱だといって泣くのか!全て喰らい尽くしながらそれでも恐れるか!人間が!選べ!」

 怒鳴り散らすたびに身体を震わせた人の子。やろうと思えばあっという間だ。早く行くようにと道を鼻先で示す。

「行くならはよう行け!人間!」

 もう一度怒鳴った。子どもが涙を浮かべながら、つまずきながらも弱々しく走り出した。追いかける意味もない。人の子など。

「走れるではないか」

 自分はそこから動こうとしなかった。


 それから杉嵩は毎日のように来た。それ以来、眠れなかった白蛇の前に現れたのだ。小さな身体には大きすぎる、重すぎる刀を携えて。

 初めの数回は刀を抜いて白蛇に向けた。光輝くそれは、しかし古びて輝きが鈍い。

なんとなく、杉嵩の恐怖と刀の重さに耐える必死な、泣きそうな表情を見ていたい気がしていた。こんな子供が、妖怪、ましてやそこらの者以上の自分に刃を向けて、どうするのだろうかと。見てみたかった。

 そして何時間も睨みあって、昼間から陽が沈むまで睨みあった。最初は怯え混じりだったが、それはどんどん薄れていくのが感じられた。

 その後の数回、試しに遊んでみた。睨みあっている最中、こちらが口を開いた。

「おまえは、なぜ我にそれを向けるのだ?」

 急に声をかけられてまた震え上がる。

 おまえ、俺を食べようとした。

 搾り出したような、よく聞こえない声だったがそう言った。この声にはいらいらさせられる。怒りを込めて言い返した。

「ふん、そうか。やはり人間というのは好きにはなれんな」

 舌を数回出すと、小刻みに、しかし大きく刃の先が震えていることが簡単に分かった。

「ならば問おう。おまえたちは、おまえたちの言う獣を殺めることは、別に構わないと考えている。なら逆はどうだ?獣が生きるためにおまえたちを殺めたら、害獣と扱われ、殺められる。しかもそれはどうするでもなく捨てる。獣は喰うために殺めている。だがおまえたちは、どうだ?」

 子供にこんな話をしても分からないだろう。何を言っても所詮子どもなのだから。

「………?…」

 子どもの疑問に思う顔だ。白々しい。

「殺したければ向かってくるがいいぞ。だがいつでも殺し返すことが出来るのは我だ」

 人の子を消すことは簡単だが、後味が悪いのでもうそんなことするつもりはなかった。身体をすぐに動かせるように尾を引き寄せた。

「こないのか?ならばなぜそれを構える?必要ないだろう。向けられるのも疲れる。しまえ」

 言うとおりにするとは思わなかった。ずっと動かずにじっとこちらを見るだけだ。

「もう飽きた。少し遊ぶか?」

 毎日こんなことをしていたらじきに飽きてくる。だが一人で退屈を潰すのもつまらないので誘ってみる。ついでに飽きているように視線を左に逸らした。が、きっとそうは見えなかっただろう。

 途端、地面が鳴った。杉嵩が声を上げて刀をこちらへ向けて走ってきた。かなり力強く。

「無意味なことだ、杉嵩」

 身体を伸ばして鼻先を子どもの腹あたりにぶつける。案の定小さな足はそれの衝撃に耐え切れずに倒れこむ。意外と楽しいかもしれない。

 そして、咳を数回して、泣いた。

「……うるさい」

 十数日前にも聞いた声。もう世話などするものかとその場を後にしようとした。うるさいということもあった。

 とりあえずは離れた。よく考えればもう世話をする必要はない。もううんざりだった。


 もう数年も経って、雨の日以外はほぼ欠かさず彼は来ていたが、あるときは晴れているというのに来なかった。だが臭いはしたので、不思議に思ってねぐらから這い出て、彼の臭いの味を捜す。しばらくするとそれが見つかったのでたどっていく。たどり着いたのは里の見える崖の上の方だった。

 茂みを抜けると、晴れ渡る空があった。そこは下里が見渡せる、崖だ。そこで子どもは見下ろしていた。里ではなく、緑の絨毯を。

「何を考えている?死のうとでもいうのか?」

 背後から近づいて、声をかけた。するとようやく気づいたのか、振り返って見つめてきた。活力溢れていた、先日とは違う涙の跡を残して無気力な目があった。

 自分の質問に答えずまた崖を向いたので、先日と比べずいぶんと冷たいものだな、と子どもの隣まで這い、自分もまた絨毯を見下ろした。そこには何があるでもなかった。ところどころに木が生えている絶壁の壁から、のびる緑の床。

もう一度空気をなめると、子どもから土、石、落ち葉、木の臭いがした。

 これらから分かることは、人間が死んだということだ。落ち葉をどけ、鉄で土を掘り、石を立てて、隣に木をさす。『埋葬』といっただろう。墓地で泣いていたのか。

何もしていないというのに彼は泣き始めた。なぜかは知らなかったが、悲しみであるこことはわかった。

「親でも、死んだのか?」

 視線を子どもにやれども、答えなど泣きじゃくる子どもからはなかった。

 緑の絨毯と子どもを見ているうちに、涙を頬に流しながら、杉嵩涛は歯をかみ締めて駆け出し、崖の上から飛んだ。

「!」

 思わず首を伸ばして、緑に吸い込まれていく彼を見送る。がさっと音がして見えなくなったので、崖に生えている木に体をかけながら、そこまで下りていった。

 先ほどの臭いに加え、鉄の臭いがただよってくる。死んでしまったか、と思っていたがしぶとく、生き残っていた。

 崖の真下で、彼は仰向けになって体中に擦り傷を作りながら、泣いていた。

「どうして…」

 かすれて生き絶え絶えの声からは、それ以上は、聞き取れる言葉にならなかった。

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