三
夜になった。が、どうも眠る気にもなれない。眠くない。だがやることもない。こういうときに誰か、この山にはいない友達が来てくれればいいのに、と思う。今のままでもいいとは思うが、退屈なことは避けたいものだった。
里を一望できる崖は白蛇が生まれた頃からずっとある。何度も地面が揺れたりしたが変化などなかった。
里は、二つの山に挟まれて存在している。一方は白蛇のいる山で、もう片方のは崖が多い。涛はそちらにも行ったことがあるらしいが、死にかけたそうだ。そしてその山の間に里があり、谷底に沿って道が伸びている。その道の一方は朝、里の子供が歩いていく。そして夕、帰ってくる。もう一方はたまに、誰かがやって来る程度だ。
明かりが小さく灯る家々を見下ろしながら白蛇は考えていた。何をしようかと。腹は減っていないし、眠くない、かといってこのまま眺めているのもじきに飽きる。だがこうしてずっと考えていれば飽きないだろうことは思うはずもない。だからこそ、もうそこへと来て一時間も経っていた。やっていたことは考え、眺めること。
「暇…だな」
白蛇がそう呟こうとも、夜は鳥も獣も仲間も、大半は眠っている時間だ。気配さえも、聞こえるはずがない。
そしてまた一時間経つと、白蛇が月を見た。今、ほぼ正面あたりにある月。その隣に鳥がいた。まだ遠く、黒く、何者かはっきりしなかったが、大きいことは分かった。遠い影であるにも関わらず、両翼を含めた大きさは月と同じ大きさだったからだ。
しばらくするとそれはぐんぐんと大きくなり、白蛇がそれは何かと分かる前に、頭上を通り過ぎて彼の後ろに着地した。
それは地を少しだけ滑った、鷹だった。とはいっても姿かたちがそうであるだけで、本来ならありえない朱色の羽を持っている彼女は間違いなく、大きな妖怪の鷹。睨むような鋭い目が白蛇の背中を見つめている。
「久しぶりよね、白(びゃく)」
なぜ訊く必要性があるかはともかく、高い声、さえずるような声があたりを満たす。
「そうだな、リム」
そう答えると、リムと呼ばれた鷹は話し始める。白蛇に様々なことを伝えたい様子であるように、体をうずうずと揺さぶる。
「最後に会ったのは十年くらい前だったかしら?あ、それと最近仲間を見ないわ。人間と嫌な臭いばっかりで身体にも臭いがついちゃいそう」
ため息をつくリムは自分の嗅覚には自信はあるが、慣れてしまったら自分では気づかないもののため白蛇に言っている。
白蛇は無表情ながら彼女から届くかすかな臭いを感じ取る。それには少し彼女のものはあったが、同時に人間と、それが作り出す臭いが混ざっていた。
「少し、な。我はここに長くいるからそのような経験は無い」
「いいわよね、あんたは気楽で」
人間と接する機会がないし、ともう一度ため息交じりに付け加え、リムは白蛇が口を開くのを、彼に視線を落としながら待った。だが白蛇は頭を下ろし、互いに互いの言葉を待つこととなった。
この二匹は百年あたり前から知り合いで、両方ここにいたが、リムはいつの間にかどこかへと行ってしまった。そしてたまに帰ってくる。そのたびに他愛もないことを話しているが、それは大抵似たようなものだった。人間について、最近思う事、変化。
また、彼女は夜にここへと来る。曰く、いつの間にかここへと到着する時はいつも夜となってしまった、とのことだった。
数分間、黙りあっていた二匹はどうするでもなかったが、ふとリムが感じていた、十年前の白蛇と今の彼の違いを、間違いなく嗅ぎ取った。
見せるつもりも無い鋭い視線を白蛇へ向け、彼を横から見つめるように跳ねて、頭を下げて鼻を働かせる。人間の臭いだ。しかも結構最近。おそらく昼間あたりだろうか。
「白、この前はさ、『人間なぞ、好きにはなれん』、とか言ってたのに、変わったのねー、人間と話でもしてる?」
訊いているのもなんだが、そうとしか言いようが無かった。これだけはっきりと臭いが分かるなら、触れていたりしないと分からないものだ。よほど長い間一緒にいたら別だが。
リムは白蛇から人間の臭いがすると分かったので頭を持ち上げる。だが白蛇から視線は逸らさない。別に彼も涛のことを隠すつもりはないので口を開いた。
「いくらか前に眠っていたら、人間の子供が座って泣いていたのでな、喰おうと思ったがやめた。それからずっとほぼ毎日会っている。我らが見えるということだったがゆえに、それなりに楽しいものだ」
へぇー、とリムが感心したように切り株だらけの里の方を見渡しながら好奇心に満ちたように言う。
「この時代にそんな人間いるのね。昔はなんか『妖魔たいさーん』って叫びながら、私たちを殺しまわってたけど、今はそんな人間いないからてっきり見える人間が消えたと思ってたわ」
実際には消えたではなく、いなくなってしまった、の方が正しいかもしれないが、そこまで彼女は気にしなかった。
彼らも人間と隣同士で、互いに害をなすことなく生きていて、平穏だったが一部の人間が、彼らの存在を知ることができる才を生まれ持つようになった。それ以来、人間は彼らを恐れ、僧となったりして妖怪を敵視するようになった。
が、ここ最近はそのような人間はいないらしい。
白蛇はリムと比べてずっと遅くに生まれたため、その頃にはそのような人間はすでにいなかったため、そのようなことは彼女からの話でしか知らない。
「いないほうが平和でいいではないか」
彼は彼女より聞いた話でその存在があったことを知っている。
その人間は怪しげな言葉を呟いて、何か丸いものを輪状に繋げた物を突き出してよく分からない力や何かが生じて、仲間がそれを受けて死んでいったらしい。今となっては遥か昔のことらしいが。
「うーん…まあそうなんだけどね、それで今となっては私たちの存在も薄いわけよ。なら私たちのことを知っている人間は少ない方がいいんじゃないかって思ってるだけ」
確かに人間から見たら、異状なまでの力を持つ妖怪たちは畏怖してしまう存在だろう。だからそれを排除しようとする者がいる。人間は弱いが、知恵と器用なものがたくさんある。だったらそれを使ってどんなものも殺してしまうことが可能だ。もちろん、人間自身も。
犠牲者は出さない方がいい、それは妖怪も人間も同じ考えだった。だが人間は、あくまでも『味方』と『人間』を、が大方だが。
「まあ確かにそうであろうが、所詮一人だ。それにあれは我らのことを、自分しか見えていないと分かっておる賢い子供だ」
賢い?とリムがうろんげに首を傾けながら、白蛇を見ながら聞き返す。
「人間の割には賢い、という意味だ」
白蛇は先ほどから動くことなくその場にいる。
リムは人間の賢い、という部分を約五百年使い続けている頭で考え始めた。
なんだか分からないけど小さい筒で何か飛ばして爆発起こしたり、でっかい板を回して風を起こしたり、鉄の塊を天高く飛ばしたり、そこから飛び降りたり。たしかに無謀というか、賢いというか、よく分からないが白にとってはこれが賢いということなのだろう。
「ふーん…十年前だったら、『愚かな人間については何も思わぬ』とかなんとか言いそうね。ふふ……」
喉の奥で笑うリムに白蛇は少し機嫌を悪くするが、そういえばとひとつ思い当たる。彼女は来るたびに何か相談を持ちかけてくる。
「おまえは、何か用があってここへ来たのだろう?それはなんだ」
笑っていたリムがそれを聞いてああ、と声をあげる。それに答えるように風が強く吹く。
「別に特別なこともないんだけどさ、付喪(つくも)の箏(そう)さんが言ってたんだけど、何だかよくないことが起こるって話。それも人間関係だから面白そうだなって来たの。そう遠くないうち、だってさ」
相変わらず、リムの顔を見ようとしない白蛇は、ずっと里を見つめている。今、この山に一番近い、涛の家から明かりが消えた。
「箏…付喪か。ずっと大切に使われていた道具に宿ると云われる神、か」
有名な話だ。大切にされてきたものは、その恩を返すため、その家に福利をもたらすという。白蛇はその赤い眼でそれを見たことはないが、年老いたものなのだろうと勝手に想像している。
「ならば、気をつけねばな」
人間に関わることなら、涛にだって降りかかる可能性があるのだ。
白蛇はようやく、リムの眼を見た。いつもと同じように好奇心のようなもので満たされ、輝く。世界を知っている彼女が実にうらやましかった。
そんな眼で見ていると、リムが声を上げた。
「そうそう、しばらくいるから明日にでも、その人間の子に会わせてよ」
もともとそのつもりだったので、反論する気は毛頭ない。
「…そのつもりだった。なぜ子と分かる?」
「なんか水っぽいの。歳を重ねるごとに水気がなくなるのよね」
リムはそういい残して、ばさりと大きな音を立てた。そして月へと向かって小さくなったかとおもうと引き返して、白蛇の上を飛び去り、山の頂にある大樹へと向かった。あそこが彼女の気に入っている寝床だ。白蛇もそろそろ眠ろうかと、首をもたげる。だがじきに夜は明ける。
夜が明けると、光が差す。光は差せば、生き物たちが動き出す。だが光がなくとも、涛は目覚める。この家には窓が一つしかなく、しかも山の方を向いているので光はやって来ない。だからいつも薄暗い。
涛が起き上がると、止まっていた時間が動き出す。囲炉裏には灰しかなく、布団に起こされた風にそれは薄く舞う。だがそれにも慣れている涛は手際よく布団を片付けて、着替えて、昨日の夕食の残りを食べてしまった。
「…ねむ…」
いつもより目覚めが悪く、それはなぜかと考えながら器を置き、虚ろに窓を見上げる。だがそこには緑の茂ったいつもの明るい風景ではなく、巨大な何かの目がこちらを見つめていた。まだ寝ぼけている頭には、刺激が弱かったらしく、ぼんやりと首を傾げるばかりだった。
「あんた…だいじょぶ?まだ眠いなら寝ればいいじゃない」
声が聞こえた。どうやら先ほどからずっといたらしい。気づかなかったのも不思議だったが、リムにとっては驚かない方が不思議だった。白蛇から聞いたように見えているらしいが、こんな状況を慣れているといっても驚くはずだ。
「ん…あんた誰?」
本当にまだ寝ぼけているようだ。食事をしていたがまだ眠いらしい。
「私は、リム。えっとね、あんたの名前は何?」
ずいぶんと積極的で白蛇とは大違いだと思いながら何者かとも思う。その目だけでは姿は想像できないが、目の周りにある羽からして鳥の姿だろうと検討づける。
「杉嵩涛…白蛇と知り合い…?」
「ええ…白蛇って、白…白大蛇のことよね?」
同じ臭いがするから、間違いないのだが確認をしておく。それを肯定した涛が器を持ってふらりと立ち上がり、刀と共に家から出て行った。もうすでに里には人気がないということはもうそれなりの時間だったようだ。だがどちらかというと喜ばしいことなのでそのまま裏へとまわる。
家の裏を、鷹が占領していた。昨日座っていた木は無事だが、その全体の大半を、翼をたたむ彼女が占めている。少し下がれ、と言うと彼女は聞き分けがよかった。
「あー、それ洗いにきたの。私を気にしないで早くすませちゃって」
鳥だからか、あたりを警戒するように見渡すリムをしり目に、水をたたえる大きめの桶に手と器をしずめる。すると水はゆっくりと沈んでいくそれと、手を冷やしていく。冬の朝の冷水に触れることさえも嫌だが、使える食器がなくなるのも嫌だから、仕方がない。
「人間ってさ、どうしてそんなものを大事にするの?それがないと何も食べられないの?」
リムが人間のように首をかしげながら背中を向ける涛に尋ねた。
彼女らにとっては器なんてものは、必要ない。必要なことは『食べる』こと、『生きる』こと、それだけだが、それ以外の物を必要とする人間が、リムは興味あって、白蛇は興味がない。
だから涛はどう返事をすればいいのか分からなかった。白蛇が気にしないことを訊かれても答え方が分からなかった。だから何も答えなかった。リムは答えないことを気にする様子もなく周囲を見ている。
答えない涛に詰め寄らないことが、涛本人には不思議に思えた。いつも、言いたいことがあるならはっきりしろ、訊かれたら答える、ということを言われていたからだった。もちろん答えなければ、怒られた。しかしリムは無視されても、答えなくても、何か理由があるのだろうと思っている。だったら怒る理由もないし、詰め寄る必要性もない。だが疑問を知るよしもない。
涛が器の水を切って、脇にある木の机に置く。振り返って倒木に座ると、改めてリムを見上げた。やはり大きいという印象だったが、白蛇と違い、目には鋭さがあってもその奥に優しさのようなものが感じられた。
「何?もう終わったの?」
そんな視線が涛を射抜く。
「終わった。用があんだろ?」
「別に食べたりしないわよ。逃げなくていいから。ちょっとお話しようと思っただけよ?涛」
興味なさそうに涛が刀を膝に乗せて鞘を触り始める。だが話だけは聞くつもりだった。
「あんたってさ、白にいつ頃会ったんだ?」
リムの知る限り、この少年が白蛇と共にいた記憶はない。となればこの何年かであろうと推測する。
「ああ、それは…俺、十五だから…十年くらい前かな…」
白大蛇は夢を見ていた。閉じることのできない目が夢を見た。それはたまに見る人間との出会いである。
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