我にかえった涛は一息つき、薄く血のにじみでる左腕の痛みと同時に、がさがさという音を聞いた。餓鬼が逃げていく音なのだろうと察する。あれらも死にたくはないから賢明なことだ。

「白蛇ぁー、けが、しちまった」

 左腕を持ち上げながら示してくると、だがそちらよりも刀を納めるように言った。耐え難いものは耐え難いのだった。その奇妙な臭気が。それに従ってから、裂けた左袖を二の腕までまくり上げる。

「そのくらいすぐ治るであろう?それより、話だが、別の場所でするか」

 それは同意されたので、また共に動き出す。いくらなんでも安全ではない場所で会話は盛り上がらない。

「話だが、こんなものがあったな。とはいっても我が見た人間の話だ」

 木々の間を縫いながら物語をつむぐ。


 ある日、いつものように獲物を探しながら動いていると、ある人間を見つけた。ずいぶんと重そうな荷物を持って、この山を越えようとした。だがあれは、さすがに重かっただろうな、様子をみていたら、いつもふらふらとしていたしな。

 だがよたよた歩いていたのは荷物のせいだけではなかった。顔を見てみるとずいぶんとまた痩せこけておった。おそらく山脈の反対側から来たのであろうな。それで数日もさまよった。ここに川なんてものは一箇所しかないこともあったから、じきにその男は倒れて、衰弱、飢死した。

 だがそのとき、男は言った。

これで、天国にいける、と

 死んだ者は天国か地獄に落ちる、というやつか。とんだ迷信だ。意思というものは魂だ。それは宿る器がなくなれば、それは消滅する。故に天も地もない。だが怨念の集まるのは地の底だろう。屍は土の下へと埋められるから、と思ったな。

 次の日来て見れば、そいつはもういなかった。餓鬼にでも喰われたのであろうよ。


 小さな里が橙色の光に包まれる頃、涛はその里の、自分の家の裏で白蛇と話していた。ここなら誰にも会わないですみ、見つからずに話せ、すぐに帰れるからだ。

 周囲に人の気配はあれども、誰もこの家と少年には近づこうとしない。昼間は農作業、夜は外出しないから。だがもうひとつ理由がある。

 白蛇の話が終わった後、気がつくともうこんな時間で、思い出しながらの話だったので不思議と時間がかかってもおかしくなかった。涛は数日前に拾ってきた、正しくは白蛇に運んで来てもらった太い木に座って、白蛇を正面に喋りはじめる。

「ふーん、天国なあ…」

 そう呟きながら天を仰ぐと、色の移り変わりが面白い色をかもしだしている。

彼はない、と言った。ならどうして分かるのか、と涛は気になった。だがその前に白蛇は続ける。

「さあな。我にも分からぬ。少なくとも、死ぬ幸せも分からん。それ以降の人間は全員ここを抜けたな。退屈な人間ばかりであった」

 老人のような物言いの彼の分からないということは、天国という迷信を男が言った理由なのだろう。懐かしむような白蛇は表情を変えないままだ。というより、もとは蛇だから顔を動かせないのか、もともとこのような生物は表情を変えるものだっただろうか、と一瞬考える涛はそんなことを打ち消して、質問する。

「退屈って、その基準はなんだよ」

 すると、なぜか押し殺しているように、くっくっく、と笑う。だが彼にとってはこれが普通の笑い方だ。何度か少年を怯えさせたことがあったが、そんなことはもうない。

「面白いところがなかった、と言えばよいか?たとえば、すぐに抜けてしまった、生きているが死にかけていてずっとぼうっとしていた奴ら、とかだ」

 それは、涛にとっても同感だった。たしかに何も変わったところや出来事がなければ、その者たちに退屈させられるだけであろう。

 涛が同意すると、白蛇は隣の家へと鼻先を向けた。子供にも聞こえる、大人たちの話し声だ。農作業が終わったらしい。この声がなくなるまで、二人は黙る。白蛇の声は聞こえるはずもないが、人間の涛の声は聞こえてしまう。その事情を重々知っている白蛇は絶対に涛を傷つけさせないように気を遣う。少年は周囲から、妖怪たちのせいで悲しい思いをしている。妖怪がどうとかではなく、妖怪の見えない人間たちのせいで。

 やがて声は遠ざかり、二人だけの静寂へと戻った。だがそこから続く言葉はなかったが、数分して涛がふと思い当たった。これを言えばいいではないか、と。

「白蛇は、どうして天国とかないって、知ってんだ?」

 『ある』といえば、それはつまり確認してきたか、してきた者がいたのだろう。だがないのなら『全てを知っている、見ている』ということだ。誰かが知らないところに、それはあるかもしれないのに。知っているようには、見えなかった。

「…知り合いの奴が、そう言っていてな。そいつはなぜか、そういうことに、詳しいのだ」

 ずいぶんと探し出したような声であった。理由を言いつくろっているような言葉。だが涛は気のせいであろうと、へー、と言う。

「じゃあ、そいつ、天国とか地獄とか、見たことないんだ。海を渡ったりしても」

 白蛇は、そうだと答えた。だがこの地には、この地の続く限りしか、行ったことのない妖怪は少なくない。海を渡る者は海に生きる者か空を渡る者たちだけだ。あと妖怪以外なら鉄の塊を海に浮かべる人間だけ。

「だったら、そいつは何歳なんだよ?」

「…歳…?」

 白蛇が意味の知らない歳、という表現は人間ばかりのものだ。人間以外の者たちはそんなもの、気にかけるものでもない。また白蛇は人間に対して、多少なりと偏見を持っているため、知ろうとも思わなかった。

「あー、『数え年』ってんだけど、一年十二ヶ月ってのは知ってるよな?生まれた年の歳が零歳。それで次の年になったら一歳。だから十二月に生まれても年が明けたら一歳っていうやつだよ」

 だから生まれた月日を覚えていても、あまり役に立つことはない。他人に明かすこともない。あるとすれば国に出さなければならない物だろうか。だがこの国を治める者の生まれた日は記念日となる。少年はそこが疑問である。何か、特別なのかと。

「…大体分かったが、そんなものは知らん」

 一方の妖怪大蛇も、なぜ月日というものが必要なのかと思っている。『生きて』いればそんなもの、どうでもいいだろうと。それを気にして、何が変わるのかと。なんとなく、そう思っているのだろう。

 ならばと涛は、白蛇の歳を尋ねたが、冬を二百回は過ごしたというあいまいな返答に唖然とするしかなかった。長くも感じられる毎日を、三百六十五回繰り返し、さらに二百以上も繰り返す。考えられないことだった。

「ほんとかよ…」


 それだけあったら、忘れられるのか…?


 だがそれでも妖怪の中ではまだまだ若いのだ。長い者で千は生きる。白蛇の知っている友達ですでに半分は達しているのは珍しくない。むしろ彼本人ともう一人だけは千の半分も生きていない。

「思っているより、短いと思うぞ?長ければ時間などあっという間だ」

 白蛇がまた笑った。それに涛も軽く笑いながら、さてと、と立ち上がった。

「じゃあ、帰る。風邪とかひくなよな」

 隣にかけておいた、木にもたれかかっている刀を掴みながらいえば、

「それはこちらが言うべきことだ」

 白蛇もまた身をよじらせる。

「はは、何か喰って、動けません、とかなるなよな」

「そのようなことは身に覚えもない」

 涛は笑顔で、白蛇は無表情だがどこかやわらかい声を漏らしながら帰っていく。だが他人から見ればそれは独り言としか映らない。だから誰もいないことが、涛は幸せだ。

 だがそれは、壁に耳ありなどとも言うもので、涛の家の前には人間がいた。

「こんな時間にどうしたんだよ」

 視線を逸らしながら涛は玄関で突っ立っているその人間へ、さっきとうって変わってとげのある声を放つ。涛を見ると彼の方へと身体を向けて口を開く。

 その人間は涛よりも少しだけ高い背で見下ろす。頭が帽子によって隠されて、視線さえも自ら隠しているように見える。

「近く通りかかっただけだよ。杉嵩の声が聞こえたし」

 小さい声で、せめて涛には聞こえるように、と出しているような声で言う。

「あ、そう」

 特に用事もないならと素っ気なく答え、涛が家へと入ろうと戸に歩み寄り、手を伸ばそうとするが、もう一度口を開かれた。

「あの、さ、大丈夫?」

 涛が手にかけていた戸を放して身体ごと振り返る。その顔は無。

「大丈夫ってなにがだよ。俺は最近風邪とか全然ひいてねえ。ひいたとしても数日もすれば治る」

 適当なその物言いが明下は少し、不安そうだった。

「…ときどき、一人で誰かと喋っているだろ?」

 ふっと涛は目を細める。いずれ尋ねてくるだろうと分かりきっていた。この相手はすでに知っている。周囲には誰かが必ずいて、そして白蛇たちとの話を聞いていると。そしてその声は他人には独り言、そのせいで。だがやめる気はなかった。涛にはすでに、心に決めたことがあるからだ。

「それで、子供が山で遊んでいるときにたまに杉嵩を見つけて、一人で喋っていることを不思議に思って、大人に言うんだ。それで大人はなんて言うと思う?」

 しらねぇよと、涛は欠伸をする。眠くはない。

「『その子は病気なのよ』って教えるんだよ」

 ふーん、と涛はつまらなさそうに反応する。このくらいは知っている。よく人里に下りている妖怪が聞きつけて、気のいいやつだったら気前よく教えてくれるのだ。

 涛はそのまま何もいわず、戸を開けて家の中へと入っていった。

残された明下は数秒間そこにとどまり、そこを照らす明かりが暗みを帯びるまでそこにいて、太陽とは反対の方向に星が現れた頃、ようやく自らの家へと向かった。

 それを戸の裏で待って、くつをぬぎ、今となっては古い囲炉裏の前に座って、薄暗い中で膝を抱いて、顔をうずめた。

(病気…か)

 そうなのかもしれないが、彼はそうではないと言いたかった。彼らの中には友達がいるんだと、言ってやりたかった。

 けど、誰がそんな話を信じるだろうか。絶対にばかにするか、夢でも見ているのだろうと言われ、また溝は深くなっていくだろう。別にかまわなかったが、なぜか、嫌だった。離れたくないと誰かが叫んでいた。

 しばらく、明下以外の人とは会っていない。したくもないし、そうも思わない。そうすることは全く抵抗がない。


どうすればいいんだよ…

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