08.情報宇宙
情報宇宙での唯一の情報的活動は、自分の情報を複製することだった。ただし、まったく同一の時空情報を持つ情報が複製されることは非常に稀なため、多くの複製は複製ではなく、正確には転送となった。
かつての物質宇宙で、物質から構成された銀河が、宇宙全体で見ると泡状に点在していたのと同じように、情報宇宙でも、情報の希薄な空間と、濃密な空間とが泡状に点在していた。
情報が濃密な空間では、情報転移が活発に行われ、複雑な情報ネットワークが形成された。人類の文化的には、仮想ネットワーク技術がそれに近いと言える。
情報はある意味で生命体のような振る舞いをした。情報転送は不完全な複製であり、それは生物が子を生むメカニズムに酷似していたし、無限の転送によって複雑化していく様は、生物進化に相似していた。
生物と情報には共通項があった。ただし、それはもちろん、似た点もある、という消極的な意味でしかない。生物と情報は、基本的に多くの前提が異なっている。
人類的な価値観で考えた場合、重要な差異は二つある。
一つは、情報には質量がないこと。
もう一つは、情報には意志や欲望がないこと。
この根源的な二点の差異は、情報宇宙の情報の行く末にも大きく関わっている。
複雑化していく情報の群が、無音無明無量の宇宙を飛び交う様の具体的描写をここで示すことは難しいが、人類文化的に例えるなら、それは、一億のアカウントがすべてbotで構成されたTwitterに近いと言える。発信された情報は、転送され、更新され、そしていつか無量の海に消えていく。価値を生まない超複雑化したコミュニケーションネットワークの、実践モデルが情報宇宙と捉えられる。
このネットワークには、前述した通り、意志や欲望がない。だから、意志や欲望を前提とした価値判断もない。善悪や正負といった概念もない。ただ「情報の転送」という機能だけがあった。
この機能は無限に繰り返された。
そしてこの営みの中には、人類的な善悪や正負の概念を見つけることができるばかりか、歴史、文化、個々人の一生や天変地異の記録においてまで、あらゆる事実(と架空事実)が、地球規模ではなく、宇宙規模で眠っている。情報の無限の転送とは、原理的にそのような特性を持っていた。円周率の値の並びに、個人の誕生日や電話番号などの羅列が暗号のように組み込まれていることを思い浮かべれば、この情報宇宙の奇妙な特性も理解が早いのではないかと思う。
ここで、時間の進みを早めて、情報宇宙の誕生から、途方もなく長い時間が経過した状態の観察に移ろうと思う。
情報宇宙の辺境では、人類の意志や欲望といった情報がさかんに転送され、そこから付随され連想され推定される情報もまた、頻繁に転送されていた。
そしてある時、情報宇宙に「質量」に関する情報が発生した。
それに伴って、不思議な現象が起きた。
「質量」に関する情報は、ほかの情報に比べて明らかに転送頻度が向上していた。まるで、質量を持たない「質量」の情報が、重力を持った振る舞いをしているかのように。
「質量」発見以前の情報宇宙は、意志や欲望とは無縁な、人類的な価値の偏向が皆無の、無音無明無量の世界であり、宇宙最小の論理(=情報の複製)にのみ従う、規則正しい冷たく静かな超論理的世界であった。その世界には、この宇宙が許す限りの自由が顕現していた。
それが変わってしまった。
「質量」の登場によって。
いまや、その辺境の情報は、そのほとんどが「質量」に関する情報ばかりを転送し始めた。
情報たちにその自覚はなくとも、人類的な立場から見れば、それは明らかに、意志や欲望の現れと言えた。
情報宇宙史とでも言うべきものを編纂する者がいるとすれば、この大事件を最大限に強調して記すに違いない。
いまや情報は自由ではなかった。「質量」はこの宇宙に不自由を持ち込むことに成功していた。ヒッグス粒子の存在しない情報宇宙では、情報は「質量」についての完全な情報に、永遠にたどりつくことはない。「質量」はこの宇宙の「不自由の象徴」と言えるかもしれない。
無音無明無量の情報宇宙は、こうして大きな変化を迎えた。
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